推しの故
ラブライブというアニメを。
一気見した。
といっても膨大にシリーズがあるので、一番最初の、無印ラブライブ13話分。
超有名アニメだと思うが、今更じっくり見た。
1~3話だけ、数年前に視聴しており、3話のとあるくだりでボロボロと泣いた覚えがあった。
しかしながら長らくほっぽらかしたまま、今に至る。
作品の内容についてはネタバレはしたくないので一切触れないが、これから先も追っていきたくなるアニメだった。
内容についてではなく、見ている中で気が付いた、己の内面の話を書く。
「推す」ができない。
登場するアイドルの皆さんを、純粋に可愛く格好よく思い、その努力やドラマに感銘を受け、応援したい気持ちが湧いてくると、
度々、その気持ちにブレーキがかかり、純粋に楽しめない瞬間が何度かあった。
これは、作品の問題では一切なく、
私個人の今の内面の問題で、
他者の人生に、自分の思いを重ねて感動したり、その人の人生を応援したりするという行為や感覚に、じんわりと、しかし確実に、抵抗ができている。
その人の人生はその人のもので、
それをある意味切り売りするのがアイドルも含めた人前に出る職業の常でもあり、
他人の期待や好意や感動や、
それらを請け負う一面が大いにあると思う。
そういった覚悟のもとステージに立っていることもわかっているはずで。
それでも、自分はどうしても真っすぐに「推す」ことができない。
十数年前、アイドルマスターにドはまりし、ライブ会場でサイリウムを振り上げていた自分には、戻れない。
生身の人間に限らず、アニメのキャラにも、漫画のキャラにも、
それぞれのジャンルで度合いは違えども、
「推す」というような感情を向けることに、
消費に似たような感覚を覚え、
どうしても、どうしても、気持ちにブレーキがかかるようになってしまった。
特に、その「推す」という言葉の中に含まれている場合もある、好意や下心や独占欲や、そういったものを今の自分は決して他者に向けたくない。
「かっこいい」とは、なれない。
「かわいい」とは、なれない。
同人誌なんかも、昔は純粋に楽しめていたはずが、
己のコンディションによっては、受け付けられないようにもなった。
愛のある二次創作ですら、時と場合によっては苦手意識を抱いてしまう。
このまま際限なく、違和感を持ち続け、何をするにもひっかかるようになってしまうのは非常に嫌だ。
だからといって、結果的に誰か「推す」ことによって
、消費したり傷つけたりするくらいなら、そのようなことは一切できなくてよいとも、思う。
それでもやっぱり単純に心震わせられる瞬間は、
アニメとして心打たれる瞬間は、
ラブライブにはたくさんあったので、
自分の中の違和感に、耳を澄ませつつ、
ゆっくりと、追いかけていきたいと思う。
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