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愛について僕が知っていること

 たとえば、です。ある男が、もう十数年にも渡ってひとりの女性を愛していたとします。男が彼女と出逢ったのは、まったくの偶然でした。
 その日、男の知人が出演するライブハウスで、対バンを組んでいたのが彼女でした。男は普段から会場に通っていたわけでもなく、むしろ、どちらかと言えば苦手な空間でした。
 本当に、たまたま気まぐれのようにして足を運んだライブハウス。そのステージで歌う彼女の姿を見て、男は魂が揺さぶられるような感覚を覚えました。
 大袈裟に聞こえるかもしれませんが、それまでの人生で経験したことのない衝撃を男は受けたのです。
 ライブが終わり、男はSNSを使って彼女の名前を探しました。当時は『mixi(ミクシー)』が全盛だった時代です。
 男は自身が激しい人見知りであり、引っ込み思案な性分であったことも忘れ、SNSでメッセージを送ります。そこから彼女との交流が始まっていきます。2009年3月のことでした。

 彼女が出演するライブに、男は必ず出向いて応援するようになりました。そわそわとしていて会場に似つかわしくない姿、客席の最奥にいる男が彼です。
 演者が入れ替えを行う合間で二言三言の会話を彼女と交わし、ステージで歌う彼女に客席から視線を送る。それだけで男は満足でした。
 頭の奥ではいつも必死になって考えています。彼女のために、何か少しでもチカラになれることをしたい。もっと彼女に笑って欲しい。もっと彼女のそばで、その歌声の近くで──。
 もちろん『男』としての、不純な下心がそこにはありました。だからこそ、全力で想いを注ぐことができたのです。だからこそ、臆することなく想いを馳せることができたのです。
 そうして、思うのです。
 いついかなるときにも彼女の一番のファンであり続けよう、と。恋人や友達として存在するより、彼女のファンであり続けようと男は自身の心に誓うのでした。
 ただのファンであれば──もしも嫌われ役を買って出なければならないような状況が訪れたとしても、彼女を傷付けることなく、彼女の助けとなれるように、その役目をまっとうすることができるかもしれないと考えたのです。
 とても浅はかで愚かしい考えですが、男は真剣でした。彼女の友人や仲間、或いはその先にあったかもしれない男が願ってやまない特別な関係ではなく、ひとりのファンとして、彼らでは成し得ない幸福というものを彼女に届けたい。彼女の心を支えていこう──それが男の掛け値なしの本心でした。

 彼女との出逢いから数年が過ぎ、男は仕事のため地元を離れて暮らすことになりました。男は変わらず彼女の大ファンです。
 顔を合わせて話したのは、何度か訪れたライブハウスでのほんの僅かな時間だけ。いくら寄せ集めたとしても24時間にも満たない、とても短い時間でした。
 それでも男の想いは強くなる一方でした。たとえ嫌われることになっても、面倒くさくなって煙たがられることなっても構わない。もしも本当に、彼女のためにできることがあるのなら。
 地方の田舎ではなく、この大都会である東京でなら、それが見つかるかもしれない。そう考えない日は、一日だってありませんでした。
 彼女から遠く離れることで、より近い存在になれることを願っていました。

 かつては薄ぼんやりと生きてきた男。その人生に満足するでもなく、しかし決して抗おうとするでもなく。達観した素振りで大きな決断を避け、諦めながら歩んでいるうちに、本当に短い『青春時代』は終わっていました。
 誰かを深く愛することもなく、メリハリのない退屈な毎日です。生きている実感や目標も得られぬまま、それでも自分自身が傷付いたり、誰かに疎ましく思われたりしないように注意を払いながら。
 そんな男の魂を揺さぶり、青春への一歩を進ませてくれたのが彼女でした。
 ほかから比べれば、あまりに遅い青春です。ですが男には、あまりに掛け替えのない時間でした。

 男の願いはただ一つだけでした。彼女の幸せこそが男の幸せでした。
 彼女が笑顔でいてくれたら、男も笑顔になれました。それは嘘偽りのない、男の真実でした。
 男はその魂の揺さぶりで愛を感じられ、そして生きていることの実感を得ることができました。男は彼女に感謝しかありませんでした。
 交わした会話は少なく、顔を向き合わせた時間もほとんどありません。男は彼女について、ほとんど何も知りませんでした。友達のような遣り取りをすることもなく、彼女の情報を得るのは、互いにフォローをし合っているSNSの中でだけ。
 しかし男は、自信を持ってこう言うのです。「人生において、彼女ほどに人を愛せたことはない。彼女こそが生涯で最愛の人なのだ」と。
 男は浅はかで愚かしい考えの持ち主です。不純な下心でもって、幸せの中にいる彼女の姿を想像したいがため、自分のために彼女の『笑顔』を作ろうとします。
 そのためであれば愚直に行動をし、そのためであれば手段を選ぼうとはしません。たとえそれが、二度と立ち直れないほどに自分自身を深く傷付け、彼女との永遠の別れに繋がるような方法であったとしても。
 それが彼女を笑顔にするための、唯一の手立てであるのなら。それが自らの幸せであるのなら──。
 そして今、男はさらに誓うのです。自分の胸に手を当てながら、力一杯に強く願うのです。
 傲慢に、独りよがりに。欲しいものは、必ず手に入れようと。男は魂で愛を感じ、その魂の中に愛を込めて過ごします。
 そうすればその命が尽きたとしても、また次にこの世界へ生まれ変わることができたとしても、彼女を再び、全力で愛せると信じて。
 最近、男が耳にしたのは、彼女が結婚をしたというものでした。地元が同じで、数年前から彼女と交流をはじめていたそうです。

 たとえば、です。愛について僕が知っていること。
 それは誰かのためではなく、それを望む自分自身のために──。

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