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練習日誌なんてつけなくていい

 練習日誌をつけているランナーは割と多い印象ですが、その意義について、つまりなぜ練習日誌をつける必要があるのかについて(子供が胃腸炎になって看病中暇だったので)考えてみました。ちなみに、私は競技的ランナーは練習日誌をつけた方がよいと考える派ですが、あくまでも「手段」の一つだと思っています。何の「手段」の一つかというと、「客観的事実に主観的感覚を一致させるための」手段です。つまり手段なので、主観と客観が既に一致しているならば、あるいは他に良い方法があるならば、練習日誌なんてつけなくていいのです。

なぜ客観的事実に主観的感覚を一致させる必要があるのか

 そもそも競技的ランナーの目指しているものは何でしょうか?個別に色々あるのかもしれませんがここでは優れた競技力(≒競技記録、順位)としましょう(めんどくさいので!)。競技記録や順位というのは(主観ではなく)客観的な事実です。つまり、競技的ランナーは客観的事実として優れた競技力を示すことを目指しているのであって、「俺は速く走れているんだ」という主観的感覚があるだけで客観的には全然速くない状態では満足できないはずです。ということで、ここからは競技的ランナーは競技力(記録、順位)という客観的事実を追求しているという前提で議論を進めます。そして競技力を追求する上で客観的事実と主観的感覚に乖離があったらどうなってしまうか考えてみます。
 客観的事実に関心のないAさんがいます。Aさんがある練習をしたときの主観が「今日の練習は良いフォームで走れた、良い感覚で走れた、追い込めた」だったとします。一方、Aさんの練習をみていたBさんからすると「Aさんのフォームぐちゃぐちゃ、、、(笑)」と思っていたとします。また、Aさんの練習タイムはAさんの走力からすると遅く、心拍計を見てみるとAさんの最大心拍からするとまだまだ余力のあるものだったとします。つまりAさんの主観と客観には大きく乖離がある状態だったとします。しかしAさんは客観的事実に関心がないので、この練習の時のフォーム、感覚、主観強度を良いものとして今後もそれを追求するようなトレーニングを続けていくでしょう。さてAさんの競技力(記録、順位)は効果的に改善するでしょうか。私には主観が負の影響を与えているとさえ思えます。やはり競技力という客観的事実の改善にはトレーニングでも客観的事実を積み上げていくべきだと思われます。
 ここまで極端な人は少ないとしても、多かれ少なかれ誰しも主観と客観の乖離はあるものです。ただ、あえて個人的かつ主観的な印象を言わせてもらうと、長期にわたって競技記録を伸ばし、狙ったレースで結果を残すランナーほど主観と客観の乖離が少なく、自分の状態を常に客観的に捉え、感覚や感情に左右されずに目標とするレースに対して必要な客観的事実を長期的に積み上げています。逆に記録が停滞していて、ピーキングが下手で、重要なレースで安定感のないランナーほど主観ばかりを語り、客観的事実との乖離から目を背け、短期的な感覚、感情任せのトレーニングに終始し、事実の改善が一向になされません。(少し言い過ぎましたごめんなさい)
 ここで言いたいことは、競技力(記録、順位)という客観的事実を改善させたいときに、主観が(ある程度)客観と一致していなくては、競技力を改善させるために必要な客観的事実をトレーニングから得ることはできないのではないかということです。なぜかってランニング中に利用できるのはほとんど主観的感覚だけです。これが客観的事実を反映しないのなら、どうやって有効な客観的事実を得ればよいのでしょうか。

客観的事実に無関心なAさんの改善例

 それではせっかくの機会なので!?Aさんの例に戻り、Aさんはどのように自己を客観的に捉えるべきかを考えてみましょう。Aさんは練習中「自分のフォームも感覚も良い、自分なりに追い込めた」と自己評価しています。対して客観的事実は、フォームはぐちゃぐちゃ、タイムも遅い、強度不足でした。Aさんの主観と客観の乖離を減らすためには、Bさんからフォームに関するフィードバックを得る、ビデオ撮影してもらうなどの方法で自分が良いと思ってたフォームが実際には思ってたのと違うことを理解すべきでしょう(ちなみに自分もそうでしたが自分の走っている姿を初めてみると多くの人がショックを受けます)。その上で理想とするフォームになるべく繰り返し動画撮影やフォーム指導を受けて主観と客観の乖離を減らしていきます。主観的に「良い感覚」と感じていたことについても、事実としてタイムが悪いとすれば、事実に沿うように今回の練習の感覚を「悪い感覚」に更新する必要があるでしょう。「追い込めた」感覚についても同様に、客観的データが強度不足を示しているのならば「まだ追い込めたはずだ」に感覚を更新すべきです。ここで重要なのは、あくまでも客観的事実「に」主観的感覚を一致させていくことです。主観に客観を近づけて事実を捻じ曲げてはいけません。これを繰り返していくことで徐々に主観と客観の乖離を少なくすることが期待され、「優れた競技力」という客観的事実を得る上で初めて主観的感覚が使い物になる日が来ると考えられます。
(ただ経験上、客観的事実に合わせて自己認識を変えることに抵抗があるタイプの人が一定数おり、このタイプの人にどれほど重要性を述べてもなかなか伝わりませんが!)

練習日誌は事実や感覚の認識を促進する

 練習日誌の話に戻ります。冒頭、練習日誌は「客観的事実に主観的感覚を一致させるための」手段と述べました。事実と感覚を一致させるための第一歩は事実と感覚をそれぞれできるだけ正しく認識することでしょう。その上で両者の関連性を見出すことができれば「この感覚ならこのタイム(事実)になる」と言った具合に両者の乖離がなくなってくるものと思われます。練習日誌は、「客観的事実に主観的感覚を一致させる」ための第一歩である「事実と感覚の認識」をする上で効果的だと思われます。人が頭の中だけで考えられることは限られているので、練習日誌にその日の練習に関連する事実を書き出す、あるいは練習中に得られた感覚を言葉にすることで(少なくとも何もしないよりは)「事実と感覚の認識」を促進するでしょう。
 書き出すべき事実についての例として、トレーニングメニューやそのタイムは最低限として、それ以外にも時間帯、気象条件、そこまでのトレーニングの履歴(走行距離、強度など)などがあります。また、最近はテクノロジーの発展により、さまざまな生体情報(心拍、運動変数など)も取得できるためこれまで以上にそのトレーニングを客観的に認識することが可能かもしれません。感覚については私のように文学的センスのない人にとっては言葉にすることに苦慮しますが、自分なりに苦しさ、楽しさを言葉にする努力によって、身体感覚が研ぎ澄まされていくのではないかと思います。
 このように練習日誌を利用して事実と感覚の理解が進むと、目標とする未来の客観的事実、つまり目標レースでの成績に向けて、どのような事実を積み上げていけば良いか、その時どのような感覚になっているかが具体的にイメージできるようになってきます。例えば、数ヶ月後に目標レースがあったとして、今月は〇〇kmぐらい走って、〇〇km×n、XXkm×nをやるとこんな感覚になると思うので、来月は走行距離を維持しながらスピード系のメニューを入れてくとキツイながらも無理やり動かせる感覚が出てくるので、最後の数週間で距離落として疲労抜ける感覚がでてくるので最後のキレが出てきてベスト出るかな〜みたいな感じです。また、個別のメニューで設定したタイムについても、気象条件や時間帯、一人でやるか誰かに引っ張ってもらうかなどによって変化することも把握できていれば、より精度の高い事実を積み上げることができるでしょう。

で、練習日誌はつけたほうがいいのか

 正直なところ練習日誌をつけていなくても効果的なトレーニングができている人もいますし、日誌をつけたからと言って突然脚が速くなるような即効性のあるものでもありません。速い選手は割と日誌やトレーニング記録をきちんと管理している印象はありますが、これも日誌を書くと速くなるのではなく、日誌をきちんと書けるような性格の人が速くなりやすいという逆の因果かもしれません。かくいう自分は(あまり速いわけではありませんが)20年以上競技を続け、それなりに客観的事実と主観的感覚のすり合わせを繰り返してきましたので最近はあまり大きな乖離を感じる場面が少なくなっており熱心に日誌を書くモチベーションは低下しつつあります。そんなわけで、練習日誌は競技力を向上させるために誰にとっても必須のものではないと思います。それでも、せっかく日誌を書くのであれば客観的事実に主観的感覚を一致させることを目指して書いてみてはどうでしょうという提案でした。

追伸

疲労(事実)と疲労感(感覚)
とか
生理的な運動強度(事実)と主観強度(感覚)
あたりは熟練者でも認識が難しいですよね!?
疲労感がないのに謎に走れなくなったり、PBが出るレースほど楽だったりとか・・・