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我が秘められし制作 2024 3/5 作品が作者から自立する瞬間ー「おにぎり絵」の制作過程にて


造語解説

  • おにぎり絵=現在制作中のおにぎりの立体が張り付いた絵

  • おにぎり立体=おにぎり絵に張り付いているおにぎりの立体

  • ジル絵=ヴァトーのジルの絵

  • ジル=ジル絵に描かれたジル本人とされる人物

  • ムライ=個展に際して作っているキャラクター。特定の観客達が認識する私(村井)の作家像をモデルにしている。

おにぎり絵の概観

横長の画面いっぱいに4人の巨人達が横に並ぶ。巨人達は「ノックメニーの丘の巨人とおかみさん」の絵本の絵柄で描かれている。これを背景に、画面中央下部におにぎり立体が張り付いている。おにぎり立体はコンビニで売られているような普通のおにぎりのサイズより少し大きく、厚塗りの絵具で盛られて作られている。海苔部分には「えがお」と描かれている。

ノックメニーの丘の巨人とおかみさん

今日やる事

おにぎり絵の制作の続き。

前回の制作の最後、(詳しくは3/3を参照)おにぎり絵の巨人達の顔をどう描くか、ジル絵の「ジルの周りの人達」に焦点を当てた分析で考えたが、半ば目的を見失う。結局巨人達の顔は、「ジルの周りの人達」の顔の特徴を簡略化したり、のっぺらぼうにして光らせてみたりした。その様に投げやりの習作を数枚描くにいたる。今日はその習作を人に見せつつ、これからの方向性を相談する。

おにぎり絵で実装される企み

個展のテーマ「作者像と作品の関係性を問う事」とその実践「ムライの演出と破壊」がおにぎり絵でどう実装される予定なのか、現時点での私の企みを整理する。

1 スケールのずれ

ムライのキャラクターの特徴(大きめのスケール感、絵具が激しく厚塗りに盛られている、ムライと一部類似する特徴を持つ山下清の好物のおにぎり、海苔に描かれる「えがお」の無邪気さ)を演出したおにぎり立体が背景の巨人達と比較される事で、ムライの大きめのスケール感が縮こまり演出が破壊される。★1

2 絵柄の操作

1でも書いたとおり、おにぎり立体はムライを演出する。さらに背景の絵柄と巨人のモチーフは、友達のシエニーチュアンから私の印象があると言われてもらった絵本「ノックメニーの丘の巨人とおかみさん」をモデルにしているため、画面が醸し出す雰囲気や巨人のモチーフはムライを演出しているかもしれない。

ところで「ムライ」はキャラクターで「村井」は作者個人と異なる存在だとしよう。すると、ムライのキャラクター的性質は、「作品」「作者像」「作者個人」をキャラクターの人格の同一性に集合させて、全てひとまとめに認識させる作用を特定の観客に働かせる。しかし、「背景の描かれ方」はこの同一性を混乱させる。背景は巨人達の可愛い絵本の絵柄が水彩で描かれ、それはむしろムライっぽくないとも見てとれるはずだ。展示での他作品と合同的に立ち上がるキャラクターのムライは、この様な繊細な絵柄を水彩で描かないだろう。このムライ感と絵柄のギャップを認識した観客には、絵が演出するムライと作者個人としての村井の存在が差異化され、この絵は一体誰が描いているのかが問われる。

3 ヴァトーのジル絵の引用

(詳しくは3/3を参照)
ジル絵のジルの顔には暗い影が落ちて、表情はどこか悲しく儚げで、観客を空間的にも心情的にもその内部へと引き込もうとする奥行きがある。しかし、観客は引き込まれる最中に、画面内で最も明るいジルの腹部を照らす白い光によって弾き返されてしまう。観客の視線はジルの内面の探索を中断され、ジルの身体の表面へと漂う。ジルの内面性およびプライベートは、彼のいる公的な演劇の場との対比でその存在感を際立たせるが、誰もそこへ侵入する事はできない。

私はジル絵のジルを、おにぎり絵のおにぎり立体に置き換える試みを行う。ジルの腹部を照らす白い光の観客を跳ね除ける機能は、おにぎり立体の大半を構成する白色と、おにぎり立体の画面上での物理的な突出によって置き換える。ジルの顔の影が落ちて悲しげな奥行きのある表情は、おにぎり立体の海苔部分に描かれる「えがお」に置き換える事で、表情の種類が変化するだけでなく、表情が文字という一面的な記号にまで還元される。内面を秘める奥行きのある「表情」が、平面的に描かれた「文字」によって記号化される。

これらの事において、ジル絵のジルの複雑な内面性は、おにぎり絵のおにぎり立体で、ムライのキャラクターの記号の表層へ置き換えられる。

私はこの置き換えに、個展のテーマの起点となる「作者のキャラクター化問題」を重ねる。この置き換えは、作者個人の内面性や作品の内実がキャラクター化した作者像の表層へと同一的に包括されていく過程そのものである。★2

こうしてムライのキャラクターは、ジル絵と関連しながら様々に表層を強調して立ち上がる。ムライの立ち上がりは、1と2の企みであるムライの演出と破壊への動きと連動する。

また、ジル絵のジルは周りの人々より大きく描かれているが、おにぎり絵ではおにぎり立体の周りの人々は巨人であり、おにぎり立体が逆に小さくなる。置き換えによるこのスケールの逆転は、1のスケールのずれをムライにだけでなく、ジルにも向けたものとして意味を重層化させる。

ヴァトー ジル 1718-1719年頃

4 観者の位置

おにぎり立体にレジンの多重層★ 3を仕込む予定。おにぎり立体上部に仕込めば、観者はそれを見る時、巨人達と同じ目線の位置からおにぎり立体を見下げる姿勢になり、巨人とおにぎり立体のスケール関係のやり取りに現実の観者の認識を巻き込めるのではないか。

しかし、レジンの多重層を仕込む位置はまだ未定で、この項目の具体性はない。いずれにせよ、ここで観者の位置についてアプローチしたい。

人と相談

人に以上の事を話しながら、昨日描いた習作群を見せると、以下の事を助言された。

個展においてのムライと山下清の関係性

1において、おにぎり立体が演出するムライ感の一つに、ムライの特徴と一部類似する山下清の好物がおにぎりという事がある。しかし、その事を観客に伝えるには、ムライと山下清のキャラクター的関連性を展示の他のピースと合わせて匂わせる必要がある。展示する他作品に山下清のタッチや貼り絵の手法が用いられているものがあってもいい。そして、個展のテーマにおいて、山下清をどうムライと結びつけて解釈できるかを考える必要がある。

ヴァトーのジル絵引用の提示

この絵がヴァトーのジル絵を引用している事が鑑賞者に伝わった方がよいか。もし伝えたいなら、題名に「ヴァトー」を入れたり工夫する必要がある。

巨人達の顔をどうするか

3で書いたように、おにぎり立体の海苔に描かれた「えがお」はペラペラに記号化された表情の文字であり、それは巨人達の顔の表情と関係性を持たざる得ない。巨人達の顔は、おにぎり立体のえがおのペラペラ感を際立てるものがよいのではないか。そこで私は、巨人達の顔をそれぞれ複雑にする事、逆にわかりやすく記号化する事、光を過剰に当てる事などを考えるがしっくりこない。アイデアが煮詰まる中、人が巨人達の顔をのっぺらぼうにする事を提案し、私はそれに対して、昨日描いた習作のうち右3人の巨人達の顔に光が強く当たってのっぺらぼうになり左の1人の巨人の顔が笑顔で暗くなっているものを見せると、これは良いのでは!という話になる。

この習作の私の意図を説明しよう。ジル絵でジルの腹部を強く照らす白い光を、おにぎりの絵でおにぎり立体の周りの巨人に光をそれぞれ当てる事で置き換える。そうする事で、中心-ジル-おにぎり立体と周辺に配置される人物達-ジルの周りの人達-巨人達の関係性を逆転させたかった。というのも、4の鑑賞者を巨人達の輪の中に参加させる企みや、おにぎり立体を見下げている状況から、巨人達を鑑賞者のメタファーと考えられないだろうか。
そうすると、巨人達の顔に光が当たる事は、鑑賞者にスポットが当たる事にもなる。

作品鑑賞において、作品を囲う定式的な言説★4 よりも、鑑賞者個人の固有の体験にスポットが当てられ、それが作品の在り方に影響する事が私の思想である。その事を助長させるため、光の当たる対象を、おにぎり立体-ジルから、ジルの周りの人-巨人達-鑑賞者に変更する事を行った。

しかし、人が習作から読み取った事は私の意図した事とは違った。巨人達のうち右3人がのっぺらぼうで、左1人だけ顔が描かれている事。そして、その左1人の顔に影が落ちて作られる立体的な笑顔の表情と、おにぎり立体の海苔の平面的な「えがお」が対比される事。それにより、おにぎり立体のえがおのペラペラ感が際立つという事だった。

のっぺらぼうの右 3人の巨人達、顔に影が落ちて立体的な笑顔の表情を見せる左の巨人、おにぎり立体の海苔の平面的なえがおの文字。

これらの関係性が何を意味するのか私は解釈できていない。むしろ、個展のテーマを作品に問いとして実装する事、という私の意図に準拠したところとは別のところから生まれた問いが、作品に、そしてこの制作自体に宿ったと言えるだろう。つまり、作品はようやく作者の私のコンセプトの図式化と説明のための道具というところからはみ出て、自立したその姿を現してきた。人からの鋭い指摘によってその瞬間に気付く事ができて、人には感謝だ。

今後の制作工程

巨人右3人は顔なし光当て、巨人左1人は影を落として立体的な怪しい笑顔にする。

具体的にやる事

  • 左巨人の笑顔のデザインを決める。

  • 以上の条件で水彩で習作を作る。

注釈


★1
ここで扱うキャラクターという言葉は、「テヅカ•イズ•デッド」で伊藤剛が論じたキャラとキャラクターの議論を踏まえる。簡潔に言うと漫画においてキャラは物語に依存せず自立した存在で、キャラクターは物語に依存した存在。ムライは私の活動や個展の作品で描く「物語」から立ち上がるため、キャラクターであるとする。

この様に漫画のキャラクターに基づく議論を参照する理由は、ムライのモデルとなる私の作者像が、漫画のキャラクターに近い形で特定の観客達に受容され、私もそれを演出していた過去の実体験の変遷があるためだ。その主観的実体験を補足する客観的参照はいくつかある。「キャラの思考法」のIV章でさやわかは現代の日本においてアーティストや芸人が漫画のキャラクターを自身の演出の参考にする事は珍しくない事を論じている。

また、「テヅカ•イズ•デッド」の2章では「のらみみ」の読者アンケート結果を持ち出して、0年代の日本の人々はキャラに相当親しみを持ち、漫画のキャラクター構造の理解が幅広く共有されていた事も指摘されている。

★2
ここで書かれる作者像のキャラクター化により起こる事は、私のこれまでの活動の実体験に基づくものでもある。私が抱える問題は、作品と人々個人の固有の関わりの可能性が作者像のキャラクター人格を起点とした類型的解釈に包括され奪われる事だ。(類型的解釈は関わりの前提にあったり、関わりを上書きする。)この状況において、私がアートに感じる自由な可変性の価値としてある、展示や発表を観客との共同的制作として捉えてその在り方を相互的なやり取りをもって暫定的に作れる事を見いだせなくなっている。この詳細は、「私の活動の遍歴と現状について」の文章で言説化を試みている最中。

★ 3
レジンの多重層とは、多重に重ねたレジンの層の隙間に絵を描いたものの造語。

★4
作品を囲う定式的な言説
それは時に作者のステートメントや作者像に準拠して割り出される匿名的観客の最大公約数的な解釈。それは時に歴史やマーケットの制度が自らのあるポジションに固定するための価値付け。

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