ムニ『ことばにない』前編の感想


前半の会話

前半は、みんな、日常での会話を定式にそって淡々と行なっている印象。時には、ストーリーに必要あるのか分からないくらい細かい社交辞令のようなやりとりがよくある。「なんか飲む?」「大丈夫」「悪いね」「ううん」「お疲れ様」のような合いの手が、会話の間を埋めるように入ってくる。そういう抑揚の少ないリズム。

途中から感情を結構剥き出しにして会話するみゆが現れる。みゆははじめから、紗枝が寝ている雄也を足でつつくのを「やめなよ!」と不快そうに注意していて、そこでようやく登場人物に人間味を感じて結構ホッとした。

冒頭のバスケのシーン

自分自身の「現在」の気持ちを現す単語を言いながら、ボールをパスしあっている。故人のことについて思い出す雰囲気になってからは、言葉は段々と「わかる」「わかれる」「わかれない」「わからない」など、複数の解釈が出来そうな意味のものになっていく。単語だけが人から離れて宙吊りになっていくようにもみえる。そして、その状況は物理的にも起きているように感じた。人の輪の中の上空で一瞬、言葉がボールによって物化しているようにみえた。誰かがそれを受け取るまで、言葉がボールという物になることで自立している。それを誰かが受け取り、ボールと共に言葉を所有する。そして、再びボールに別の言葉を乗っけて、手放して、自立させて…といった風なやり取りにみえた。

みゆは、後半になるにつれて、美しい、汚い、清潔、などの言葉を紗枝や雄也にぶつけるように使う。そして、それらの言葉の意味を雄也に何度も問われる。家族とは?今って?美しいとは?と。みゆは「やめて!」と、その問いを拒否するような態度を取っていて、言葉を一度所有した形のまま、なるべく手放さないようにしているようにみえた。バスケの時の、言葉をボールに物化させて手放してから相手に受け渡すやり取りと比較すると面白い。なぜみゆはそれらの言葉を手放すことを拒否していたのか。そのことと、みゆのお父さんが政治家という家系や、なくなった姉がレズビアンだったことの受け入れられなさがどう繋がっているかは、この演劇の重要な主題になっているように思う。

浅田の目つき

みんなを乗せたドライブの時。朝美がいなくなると、後ろのみんなに朝美を演劇に誘うのをやめてくれと話し出す。その時、浅田はこちら(観客席側)をみている。その時の浅田の目つきにものすごく恐怖を感じると共に、私が個人的に思い出したことがある。電車の窓に反射してうつる自分の顔を見る時の事だ。

電車の窓にうつる自分の顔は、過ぎ去る外の風景と重なり、顔のほりに落ちた薄い影だけが、かろうじで浮き出ている状態で、表情がわかりずらくなっている。その窓の顔をじっくり見ようと近づいたり、顔を動かしたりすると、私自身の動きと同時に窓の顔も動き出す!そこで、窓にうつる顔が自分自身の顔である事が急に明らかになると同時に、その顔には何を言っても伝わらなさそうで、それが私の顔であるという事実に対しても抗う術が一切ないんじゃないかという恐怖が湧いてくる。

浅田の目つきからも、こういった種類の「抗う術が当たり前のように残されていない」恐怖を感じた。では、浅田の目つきから出る視線はどこに向かっているのか。

浅田の視線は観客全体に向いているが、観客のことは誰一人みていなくて、では、もっとさきにあるものをみているのかといわれると、それも違う気がする。視線は観客の後ろにまでは、いっていない気がする。例えば、恋してる人が、恋文をもらい、恋人のことを想像して遥か遠くの空間をぼんやりと眺める時のような、黒目にハイライトが宿る輝きはない。真っ黒な黒目と、眉毛の輪郭が、目尻のあたりに落ちた影によって繋がっていて、影はそのまま目のうちの中に閉じていき、眼窩の中に渦を巻きながらめり込んでいくような視線が私たちに向けられていた。

ワークショップのシーン

それぞれが1分間自分の話をしている時、それは役者本人の経験なのか、それとも役のためにつくったものなのか、さらにそれを聞いた人が話を再現する時、それは誰の経験のことを話しているのか。シンプルで誰でもできるワークショップのアイデア自体が面白いと思った。

自分探しの旅

終盤で花苗が言う、色々取り込んで自分をぐちゃぐちゃにしていくというセリフが個人的に好き。花苗はソファに座ってる時、よく足の裏をパタパタ地面から浮かせるのが気になる。

2022.11.10


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?