分からない

 ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考をパラパラとめくって、日本語で書いてあるのに理解できない文章がある事にワクワクした。入門書から始めよう。死ぬまでには理解できるだろうか?

 人は子供に戻ろうとして、子供時代に聴いていた音楽を聴く、昔観てたアニメを観る、自分を繰り返す。でも、懐かしむって事はこの世で最も「大人っぽい行動」なんじゃないだろうか?僕らは子供の時、懐かしさなんて知らなかった。

 もしずっと子供でいられる方法があるなら、それは「分からない」と触れ合う事じゃないか?子供は懐かしんだりしない。僕らは成長するにつれて何でも分かったような気になって、それを脅かす「分からなさ」が怖くて見ないフリをするようになってしまう。
 僕は意味の分からない哲学書を読むと良い気分になる。考えた先に何か答えがある事を期待してないからだ。考える事それ自体が目的だから楽しい。思ったような結論が得られなくて悲しんだりしない。ペダンチズムが全くない訳じゃないけど、衒学的な自分も込みで好きになれる。

 哲学書に書かれてる事はパンクロックの歌詞の様な力強く劇的なものじゃない。でも、僕に考える態度を与えてくれる。「考え過ぎる」言葉からはネガティブな印象を受けるが、考える事とネガティブになる事とは全く別のものだと気づいた。人がネガティブになる時は「感情に思考させられている」のだと思う。本当の思考ではないのだ。完全に感情と理性を切り離せるかと言われれば難しいだろうけど。

 「感情と理性を切り離す」という言葉に「冷たく、つまらない人間になっていく」というニュアンスを感じとって怖くなる気持ちもちょっとある。でも、感情や感性は磨いていくものというより、止めようとしたって自然に生まれるものじゃないかと思う。本を読んで失われる感性なんて、感性じゃなくて、「思いこみ」だ。「偏った考え」がその人の面白さになる事はあるし、魅力的だと思うけど、やっぱり僕は思い込みから自由になりたい。
 どうしたって人は思い込んでしまう。決めつけてしまう。逃れられない。虚心坦懐でいる様に努力するくらいが、きっと丁度いいのだ。
 やはり、感性は獲得するものじゃなくて、ただそこにある物だと思う

 何が言いたいのかよく分からないけど、結論を出す事が目的じゃないからいいのだ。1年後にはここに書いた事と全く逆の事を言ってるかもしれない。

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