見出し画像

水晶をとこ 瞑想をどりに寄せて

今回の個展で発表する写真作品は2018年から撮影されたものです。
2018年に撮影されたフォルダーには「fluid」とタイトルが書いてある。
これはこの時期の少し前にお客様から聞いた「ジェンダーフルイド」というジェンダー概念が自分の腑に落ちたことから発している。

流動的なという意味をもったこの言葉は、個人におけるジェンダー感が流動的に変化するのを指す。
私個人の感覚としては、私という存在においてのジェンダーがもはや男でも女でもなく自分というものになっている感覚があり、社会的には男性性というものを生きてきてそれにも嫌悪があるわけではなくある種慣れたところもある。
ただし、人々に社会的性の有り様を期待されたり、性別で判断される風潮はとても苦手だ。
そんな時私は水の中を流動的に形を変えながら、この世界で宙をぷかぷかと浮いている感覚をもつ。どこでも浮いてしまうので、私は宇宙人なのかもしれないと本気で思っていた。 
(実際にあだなで言われたこともある)

小さい時よく言われた「女の子みたい」という言葉も、言われたときは謎だったが、何を指されたのかわかったときや、「意外と男っぽい」と言われる時、それは自分ではコントロールできなかったのでしょうがないのだった。話し方や素振りを矯正しようと頑張ったこともあったが、それはわたしではなかった。
しょうがないといえば、母親にゲイだと言った時、何かを言われてもこの「しょうがない(じゃん)」というのを使った記憶がある。
愛のことだから良いと思わない?とも問いかけた。それは今でもそう思ってるし、誰かを好きになったりする事は悪いことではないはずだ。
何しろ誰かを好きになれたことは自分が嬉しいことだった。

社会的通念に押し込められることが小さい時から苦手で、宙に浮いてぷかぷか浮かびながら、ぶんぶん何かを振り回してました。
私は一体何を振り回してたんでしょうか。

私が男性をモデルにするのも、そんな当時の気持ちを表現したいという気持ちが強いことが大きいと感じる。
モデルは、私自身の投影であり、(完全に自分ではないというのがポイントでもあるのだけど)そしてぷかぷか浮かんできて感じた詩の表現でもある。

少し前に写真家の友人の中村紋子さんが呟いていた写真は詩のようなものというのに、深く納得してぼんやり考えてました。

実際に我々の前に繰り広げられる三次元の映像のような現実のなかで、その現象を二次元にするということは言葉という世界のなかで例えると詩だったり、日本だと俳句みたいな感じになる気がする。写真だと見える表層のなかに意味を捉え、色彩や映り方で詩を紡いでいく感じ。
現実の世界の投写は絶え間なく、イメージは次々に流れていく。そのひとつひとつに名前と意味があらかじめ与えられていて、その名前と意味で脳は勝手にひとつのイメージを読み取るシステム。そのイメージを細やかに捉えて、二次元の詩表現として形にする。それはひとりひとり違う詩のあり方があり(世界の捉え方)しかし共通言語としての共同性もあり面白い。

写真の二次元性はプリントをして手にとった時にはじめて自分の思いに気がついたり、一つの別の宇宙のような世界が生み出される感覚を私はもっている。そして形になった時、喜びがある。プリントを生で見て欲しいなと展示をしている写真家は殆どが思うのではないか。
printing artという言葉がしっくりきます。


2018年は、コップや小さい水槽(首からかけられる虫かご)に水を入れて、その前にレンズを置いて撮影をしていました。水槽に酸素を入れる小さいぶくぶくを入れたりもしました。この撮影方法は撮影のしずらさでは自分史上最高だった。

撮影のしずらさは、コントロールができないと頭で考える間も無く思考が抜けていく感覚がある。より自然の力に任せる感覚がある。

2019年は、個人的に激動な1年だった。夏に撮影を始めて、この年は水を使うのをやめて花や鏡を使うようになった。

この夏は例年と比べて特に酒を飲んで怪我をしたりトラブルが多かった。それは自分の中にある重い感情、不安や恐れが特に表に出てきていたのと関係しているのだと思う。夢は叶うが、この頃は悪い夢もどんどん叶ってしまう実感をもった。

自分の状態の悪化は思考をより重くさせ、その重さの通りに現実は作られていった。
思い出すとこの年になるまでどうしても外せない不安感、恐怖心というものがずっとあった。
それが徐々に蓄積されこの年で爆発した。
夏の撮影後の電車で、パニック症状が久しぶりに実際に出てしまった。
20代の頃、パニック症状などで精神科に3年ほど通っていた時期があった。
薬はどんどん増えていき、症状は出なくなったが私は薬を飲み続けることで自分の本当の感情がわからなくなっていく不安を持つようになっていた。
初めは苦しいほうが怖かったが、3年ほどたつと自分の感情をコントロールされてしまうことに違和感を感じるようになっていったのだった。
本当はいけない事だったが、ある日を境に病院へ行くのをやめて、薬も一切やめてしまった。
どうしても薬が飲みたくなくて、気を紛らわせるためにジムに通い運動をしまくる事でなんとか薬を絶った。

それからは、たまにおかしくなりそうになりながら、なんとか誤魔化せる方法を自分なりに編み出せるようになっていた。
それでも、密閉された空間、無理を強いる状況、上から目線で他人をまるで奴隷のように扱う人がいるような状況になると発作的に予期不安が襲ってくるが、それでも実際の症状としては現れてこなかった。

それが10年以上ぶりにやってきたので、ひどい落胆と焦りの気持ちが生まれた。
(薬に関しては様々な考えがある事を理解しておりこれは極めて個人的な感想です)

この頃、毎年撮影場所として行っていた画家の海老原靖さんのアトリエで撮影をしていた時、最後のカットでたまたまアトリエにあった頭部の「骸骨」の模型が妙に気になり、モデルにそれを持ってもらい撮影をし始めた。
ベットに寝てるモデルの近くに骸骨を置いて撮影している最中、嗚咽のようなものが体の奥底から湧き出してくるのを感じ、涙が勝手に溢れ出てきた。
私は自分の体の反応に頭では理解できず、ただ涙が出るままにするしかなかった。
しばらくして落ち着いて考えを巡らすと私の死への恐怖心というものに体が反応している事に気がついた。
私はこの死というものがよくわからず、体が苦しく死への兆候を感じると恐ろしくなりパニックになっていた。
これまでずっと、その恐怖と自分の中で折り合いをつけられずずっと苦しかったのだと、前にいるモデルと骸骨を見て気がついた。死が怖いあまりに、死に向かっていってしまう。それは私自身の生きるという事への疑問や不満、自分自身への無価値観があり、それらの代表的な象徴として死という概念と結びついて私はパニックを起こしていたのだ。そしてそれは長く私のそばにあり、どんな時もライナスの毛布のように片時も離すことはなかった。

私は作品制作をすることで潜在意識を探りあて、奥に隠れているものを形にし、そうする事でようやく手放すことができることを無意識でしていたのだと気がついてきた。

パニック症状が出た次の日、私はメンタルクリニックへ朝一で駆け込んだ。
これまでの断薬のこともあったし、さすがにあの症状が頻繁に出てしまうと仕事が難しいと判断し
治そうと思った。医者にこれまでの説明と昨日の症状を説明すると、当たり前だがあっけなくパニック障害と診断され、薬を処方された。それは、以前よりも強い薬で私の中でやはり迷いが生まれた。
治したいが、薬を飲みたくない。同時進行で、いろいろな療法や情報を調べ始めた。
その頃よく読んでいたのは、森田療法の本だったり、内海聡さんの情報だった。
森田療法は、森田正馬氏が考案した療法で、最近では薬を使うようになったが彼自身は使わないことで知られている。
簡単には言えないが治そうとはせずに「あるがまま」を受け入れていくというような療法で、そのままにしておく態度を養っていくことを実感させていく。これは、自分自身も腑に落ちることで私の場合大抵は一度なった事による「予期不安」
から症状が続いていく感覚がある。内海聡さんの本からは、日本の医療事態への疑問が生まれた。

森田正馬氏の本を読んでいくと、禅に結びついていき、私は禅の本も読むようになっていた。

次の日、薬を飲み、その次の日にはやはり薬を飲まずに治そうと決断した。

この年、そんな状況だったからいろいろな活動への不安感もあったが年末に二箇所の展示が大阪であり、
私はしばらくぶりに東京を1週間離れ、大阪で過ごした。心配していたパニック症状はほとんど出ずに心からリフレッシュして東京に戻った。

ようやくこれまでに溜まっていた澱のような感情を手放していく時がきていたのだと思う。

そして激動になる2020年が始まった。

そうしていくうちにいつの間にかパニック症状は治ってしまった。
とても不思議だけど、これもまた自分が作っていた現実だった。
では、どのような世界を作ろうか、私が求める好きな世界とは?
好きな世界を作ろうと毎日、自分の感情を作りたい感情の世界に持っていけるようにトレーニングしていった。

そんな中で感染症騒ぎが起こった。

去年の自分だったら、とても乗りこなせなかったと思うが自分の世界は自分で作るということを知ったいまは、その現実に飲み込まれない自信があった。

撮影をすることを考えて、どんなことを撮ろうと毎日考えていた。
自粛期間中、いろいろな思いが駆け巡りながら、私は踊っている人を撮りたいと直感的に思った。
私のインスタグラムをフォローしてくれてる方の中に、コンテンポラリーダンサーの男性がいることに気がついて彼にモデルになってもらおうと直接DMを送ることにした。すぐに彼から嬉しいお返事を頂き、お会いしたことがなかったので顔合わせをしようという事になったのが6月。
垣花克輝さん。
自粛が開けたすぐだった。

どんなイメージで撮るかその時は固まっていなかったが、とりあえず撮影をしたのが梅雨。
雨が降っていたので外での撮影を諦め、部屋の中での撮影になった。ふと、部屋にある水晶が気になりそれをかざして撮影してみる。
すると、目の前のイメージに反射の具合で重なったり、キラキラ光ったり、とても美しく感じた。
幻を見ているような気がした。
それから今回は水晶で撮影しようと決めた。

気がつくと、雨も止みせっかくなので近くの公園でも撮影する事にした。
広い芝生の上で、踊ってもらった。小雨が降り出し人もまばらだった。
自粛期間中、この公園は閉園していて私はその事をとても残念に思っていた。
新宿に住んでいると、なかなか自然を感じる機会がなく、私はこの人が作った自然に癒されてきた。

雨の中、踊る目の前の男性。
撮影中は集中して目の前の現象を感じとる。
綺麗なものが見たい。心が浄化されていくような。
その集中はほとんど瞑想状態だった。
体ごとひとつの美に集中し、感覚と一致していく。

「お気に入りの水晶を持って私は男を占わず、鏡の世界で美を作って遊んでいた。
そのうち光の中に入って私はいなくなりあなたとなった。
あなたも私で、世界のすべて。

そのうち私は前にいる男と一緒に瞑想をしていたことに気がついた。
iPhone片手に世界と繋がりながら瞑想をどり。

踊らされているのではなく自ら踊る。
諦めや投げやりな踊りではなく
自らの自由を掴むためのダンス。

あなたも現れ私と一緒に遊ぶ。
いつしか私たちは水晶の様に透明になって、光って」

いつだって、私の人生とその表現物である写真や他にも全てのものは深層心理に眠っている私を目覚めさせ、顕在意識の私を驚かす。
今回の騒動で、私は乗りこなせていると思っていた自分の中に眠る様々な感情があったことを撮影後、プリントしていくうちにやっぱり気がつかされた。

私は人間に触れていきたいし、自然を求めている。
人間や自然の美しさを見たいし、この大変な世界の中で強くそして美しく生きる人間の姿や自然を撮りたい。

小学生の頃だっただろうか、私は千葉県君津の団地に住んでいて学校からの帰り道空き地を通りながら、夢想をする毎日だった。
ここに遊園地があって、ここにデパートがあって、ビルもたくさんあって。大きな空き地が勿体無く感じ、ここにたくさんの商業施設があったら楽しいだろうなと毎日ワクワク考えていた。
空き地は草が高く生えていて、秋になるとススキが揺れていた。
夕方暗くなってそこを通るのが心細くなって、人がたくさんいたら寂しくないのにと思った。
そして、今私はその頃の夢の中に生きている。
起きて窓を開けると四方八方にビルが立ち並び、様々な商業施設もあってとても便利だ。
新宿のど真ん中、人がいない時などないし、人がいない寂しさすら忘れる感覚をもつ。
本当に子供の頃に夢を見たまんまの世界で、私は時折唖然とする。
夢は叶ってしまう。それはとても素晴らしい事だが、私は子供の頃の何もない豊かさを時折今夢想している。

垣花克輝さんとの撮影も4回目になり、これで今回はラストだった。
最後はどうしても海に行きたくて、朝早く起きて二人で海に行った。
ちょうど良い天気で、人もちらほらとしかいないので絶好の日取りだった。
私は、それまで使っていた水晶を使わずに海の中にいる彼を撮影した。
久しぶりに入る海は本当に気持ちよくて、私はこれがしたかったのかも知れないと思った。
海は大きな水晶のように光や人を受け入れ乱反射している。

撮影は4名の方にお願いしました。
なかなか外での撮影が難しく家での撮影がほとんどだったのですが、
今見るとこのステイホームの時期を思い出させる。
水晶を使った撮影も、現実の世界からの逃避、憧れが詰まっているように感じ今しか撮影できない感情を残すことができたように感じています。

カメラは反射した世界を残し、私はこの数年またさらに反射させるものを撮影に使用していた。
反射は写真の構造、反射した世界を私たちは捉えている。
その世界の美しさに触れ、私の美と思いを捉えていきたいと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?