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日本でキリスト教が広まらない理由③ 植民地経験

日本でキリスト教が広まらない理由①に「殖民地化された経験がないから」という見方があることを紹介しました。
 
教科書には絶対に書かれることのない「事実」をお伝えします。きっとビックリなされることでしょう。
 
 
コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷より
 
 天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
 
<中略>
 
日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
<引用終了>
Shimosan's OpenLab - Slavery in Japanese Society : 日本社会と奴隷制 - (daishodai.ac.jp)
 
秀吉の策は徳川家康にも引き継がれ、徳川幕府は以下のようにキリシタンを取り締まりました。これ故に鎖国が始まり、日本の村々に多くの寺院が作られるようになり現在に至っているのです。
 
「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」講談社プラスアルファ新書 古川愛哲著より
 
 島原の乱が日本人の宗教生活に与えた影響は大きい。
 寛永15年(1638)檀家(だんか)制度、寺請(てらうけ)制度が全国的に確立されたからである。これにより日本人全員がどこかの寺を菩提寺(ぼだいじ)にして、檀家の関係をもたねばならなくなった。菩提寺とは葬式をしてもらう寺のことである。そして寺の檀家に登録してもらう。これを「寺請証文」といい、寺請証文がないとキリシタンと疑われる。そこで寺が必要になってくる。
 中世後期以来、持仏堂(じぶつどう)、阿弥陀堂(あみだどう)、観音堂(かんのんどう)など、無住の堂宇(どうう、堂の建物)があった。それらの堂には季節ごとに僧侶が訪れるだけだったが、これらに住職を置き常駐の寺に昇格させた。そうでもしないと、村人全員の菩提寺が足りないからである。寺院の由来書で中興の僧が江戸時代の人物であるのは、この檀家制度が原因である。
<引用終了>
 
そしてこのような記載も。
 
FDRの祖父でジョン万次郎の後見人、ウォーレン・デラノ、開国強要者、ペリー提督といった人脈も、黒人奴隷貿易業者と重なります。そして、彼らはアヘン密輸業者でもありました。
 
1543年 ポルトガル人が鉄砲を伝える
1549 ポルトガル系改宗ユダヤ人フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を持ち込む
 
1,鉄砲を売る
2,消耗品である火薬を高く売る 
3,キリシタン大名たちは買わざるを得なくなる 火薬1バレル(ワイン樽 約160リットル)で女50人
 
現在ポルトガル語やスペイン語を話す国々の多くはタイトルにある植民地経験があります。植民地化時代における日本の史実が本noteの最後になりましたが、秀吉や家康といった当時のリーダーがいなかったらキリスト教は広く日本に布教されていたことでしょう。
 

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