8,狭山茶ミステリ― 渡来人と平城京、そして西野姓の由来

学校では決して教えないことが、タイトルの「狭山茶ミステリー」を解き明かします。。
 
埼玉県南西部を歩いていると色々な史実に出会います。埼玉県日高市の高麗神社脇にある、高句麗からの渡来人の王である若光の墓があるとされる聖天院(しょうでんいん)には、なんと弘法大師の像が・・・。
このことについて、筆者が確信しているこれまで誰もがたどり着けなかった本当の歴史を簡単に記します。
 
時は、666年。朝鮮半島北部から現在の中国北西部を支配してきた高句麗(夫余 ぶよ)は、たびたび大国である唐(中国)の侵略を受けていました。
しかしながら彼らは、清野作戦(人々の暮らす野を空にして山の上に蓄えたてこもり、侵攻してきた敵に米一粒も与えないで消耗させる頭脳的作戦)をもって敵を打倒してきました。
 
それでも、高句麗は、閉じこもった山に火をつけられるようになり、苦境に陥るようになりました。
 
高句麗が滅亡することを恐れた国王は、若き王子一行を日本に送りました。日本には弥生時代から、「中国(シルクロード)を経由して逃げてきた渡来人」や「百済人のように敵に滅ぼされてやってきた朝鮮系渡来人」がたくさんいたようです。
 
当時は、和(算数の「和」、民族+民族=「和」)をもって貴しとす、という渡来人受け入れの思想が、行きわたっていたのです。
 
668年高句麗は、ついに唐により滅ぼされました。このことは歴史の教科書にも載っているでしょう。
 
唐と戦っているこの間に、高句麗から日本に渡来した朝鮮民族は相当数であったようです。
 
日本国の朝廷(時の最高権力者※)は、渡来人を厚遇し「東の国」に生活の地を与えました。現在の狛江市などはその時の地名が残っていると考えるべきです。
 
この「東の国」に住んでいた渡来人が、今度は日本を助けることになっていくのです。
 
※「朝廷」という言葉の使用には諸説あります。
 
渡来人に関する認識を高めていただきたく、これまで記事と重なる部分があることを許し下さい。
 
694年、大和(現在の奈良)の朝廷は、藤原京という権力の本陣を築きましたが、これをみた高句麗からの渡来人は「甘い、唐の大軍が攻めてきたら防ぎきれない。背後に崖(がけ ハケ)のような山がある狭く、攻められにくいく、逃げやすい場所に本陣を構えないと平安はない。」と進言したと容易に推察されます。
 
アメリカ合衆国同様に、もともと、日本は渡来人の「和」であることを心得ている大和の朝廷はこの渡来人のアイデアを即座に受け入れ、藤原京から北方の狭い野に平城京を建設し再遷都しました。それは、694年の藤原京創設からわずか16年後の710年のことでした。
 
この時に活躍したのが、高句麗から渡って来た渡来人です。彼らは位置的に日本より早く大陸の文明を知る地域に住んでいたことから、馬の扱いや製鉄、木造建築などの分野で平城京づくりに大きく貢献することができたのです。
 
「東の国」に住む高句麗人も、日本に助けてもらった恩義もあり、平城京への遷都という国家的大事業に大きく携わり、朝鮮古来の持てる知恵、力を出し切ったのです。
 
この大事業時に奈良平野の西の野に居を構えた高句麗人は「西野」の姓を、北の野に居を構えた高句麗人には「北野」の姓が与えられています。
 
大和朝廷は喜び感謝し、東の国に散っている高句麗人に「高麗郷」という安住の地を与えました。その地が現在の高麗神社がある日高市周辺なのです。
 
この高句麗人の知恵、背後に山が迫る「狭い野」に政権の本陣を構えるという法則は、平安京、鎌倉幕府へと継承されていくことになったのです。
 
710年に平城京遷都がなされ、遷都6年後の716年に高麗郷が誕生した。つまり、平城京遷都を見届けた高句麗人は6年かけて奥武蔵の地に結集したのです。高麗神社では2016年に1300年記念のイベントが催されました。上皇上皇后様が天皇皇后陛下時代の2017年9月に高麗神社を私的に訪れられました。高麗神社には多くの皇族が訪れた記録があります。このことから推察すると、今後も皇族の方がご訪問されることもあり得ると考察されます。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?