見出し画像

全部ぜんぶ覚えておきたい

写真を撮り始めたきっかけというのは、人それぞれだと思う。
私の場合、写真を撮り始めたのは記録のためだった。
なので、自分の撮った写真を『作品』と呼ぶのは恥ずかしい。
たぶん、ずっと作品と呼ぶことに慣れることはないだろう。
この程度のもの誰だって撮れるよ、と私が自信なさげにいうと、友達が「そんなこと言わないのー!」と叱ってくれる。
友達は自分を卑下するなと言ってくれているのだろうと思うと、ありがたいと思う。

デジカメが普及し始めたころ、父親は「フィルムのほうがまだ画素数が大きい。だからデジカメは嫌だ」と言って買わなかった。
私の父親大きい一眼レフのフィルム式のカメラを持っていて、それは大事な書類や印鑑など大事なものを入れておく戸棚にしまってある。
行事や記念日や親戚の結婚式の時にその大きいカメラの登場となる。
レンズには色々なメモリがついていて、子供の頃にはそれがなんだか操作がとても難しそうなものに思え、私はきっとこういうのを使おうとは思わないだろうなあと、戸棚の戸を開け閉めするときにその大きさからいやでも目に入るカメラを見ながら思っていた。
そんなわけで、たまに旅行に行くときに、祖父が貸してくれたコンパクトカメラや、使い捨ての「写るんです」のほうが好きだった。
祖父や父親はコンパクトカメラのことを「ばかちょんカメラ」(今では差別用語として使われない名称)とずっと呼んでいて、コンパクトカメラという名称を私は自分でカメラを買う時に初めて知った。

そんなわけで、我が家にはデジタルカメラが普及し始めても買おうという人間はいなかったが、大学生になった私がデジカメを買うことにした。
大学生の頃、歴史系の学科に進んで民俗学などをかじることになったため、フィールドワークで必要になるからだった。
そんなわけで、デジカメは先生にくっついて調査に出かけたときに見たものや私が個人的に気になったものを黙々と写すためのものだった。
アングルがどうのとか、構図がどうのとか、色合いがどうのとか、まったく考えてない。
全体の様子はどうだったのか、ここになにがあったか、とか。
写真は記録のための道具だった。
そんなわけで、今でも写真を撮るのは半分くらい記録のためである。
気になるところに出かけては建物や路地を撮ったり、植物を撮ったり、出くわした猫を撮る。
1枚の絵として見たとき、見栄えがするかどうかは気にするようになったけれど、結局根本的なところは変わっていない。

大学生の頃、なぜだか私は自分が見聞きしたものを全部ぜんぶ覚えておきたいという謎の欲求が強かった。
それは知識欲だったんだろうと思う。
図書館から借りるのは人文科学の本ばかりで、小説は読まなかった。
高校生の時から好きだったライトノベルの続巻を買うぐらい。
その図書館から借りてきたの本のタイトル、作者、そして目次をノートに書き写す。
目次をノートに書き写すのは、大学の先生が「目次を書き写すようにするとその本の内容を見返した時に思い出しやすい」と言っていたからだ。
ときどき、読んだ本のデータベースを作ろうかと思ってAccessの本を読んでみたけどよくわからなくて挫折したり、ブログに記録をつけていた。

いろいろあって、その時撮っていた写真はほとんど捨てて残っていないし、目次を書いたノートも捨ててしまった。
ブログの記録はかろうじてブクログに残されている。
たまにブクログを見直してみると、ああ、こんな本を読んでいたなあと懐かしくなる。
全部覚えておきたいという欲求は、就職して仕事が慌ただしくなっていくうちになくなっていた。
旅行に行けばあいかわらず写真を撮っていたけれど、スマホを使うようになってから気楽に写真を撮るのが楽しくなってきて、SNSに簡単に投稿できるようになってからますますどっぷりつかるようになった。

それでも私の写真を見返してみると、「記録」なんだろうと思う。
友達に旅行の写真を見せたら「君が自分の写真を記録だという理由がよくわかった。記念じゃないんだよね。だって、自分たちがイエーイとかやってる写真が1枚もないんだもん」と言われ、そういえば、記念写真を撮るという発想が私にはないことに気が付いた。
何のために記録を残すのかといえば、忘れたくないからなんだけど。
見たもの聞いたものを全部ぜんぶ覚えておきたいだけで、それはまあ、ベクトルは違えども「記念写真」にも通じるものはあるんじゃないかと思う。

------------------------------------

というのを、別のところでの自己紹介用に書いてみたけどなんかしっくりこないなー!
さて、どうするかな。
もうちょっと削って付け足ししたいんだけど、どうしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?