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護るものはもつまいと。

日本人女性の平均寿命は最新の統計で87.57歳。私がこの年齢まで生きると仮定してこれを24時間に換算すると、私の生涯時計の針はまもなく午後四時を指そうとしています。何も解決がみられなければ、その半日以上を私はT.I.(Targeted Individual=標的とされた個人)として過ごすことになります。

残り約8時間。でもまだ三分の一残されているともいえます。その間に、私はもう一度T.I.ではない人生を送ることがあるだろうかと考えることがあります。

私には、自分がこうなる以前に読んで感動した本の中に、いま目を通すとまったく心を動かされない本が何冊かあります。それは、私が「知らされた」ものごとを、まだ「知らない」人たちの視点を大前提にして書かれているからだと気づきました。「知ってしまったあとの自分」はそんな著者と感覚を共有できなくなったということです。「知る前」と「知ったあと」では、共感できる本も世の中の見方も、どんな人を友人にしたいかも、まったく変わってしまいました。科学的な常識が天動説から地動説にパラダイムシフトしたように、私の常識の基準もきれいに二つに分かれました。

築地塀の瓦を借りて咲く野草。文句言わずにそこに咲く。朝の通勤路。

普通の顔して暮らしているT.I.=Targeted Individual(標的とされた個人)

私は見かけ上どこにでもいる一庶民ですが、それとは不釣り合いな現実を抱えながら生活しています。海外では、T.I.(Targeted Individual=標的とされた個人)と呼ばれている「集団ストーカー(≒ガスライティング/ギャング・ストーキング)」の当事者のひとりです。普段何食わぬ顔で会社員生活をしていますので、家族も友人も同僚も、私が抱えている問題を知りません。
(以下、「T.I.」を「ターゲット個人」に言い換えます。)

私は、北朝鮮に拉致された現地の日本人も屈託なく笑うんだろうなと考えることがあります。移動の自由を奪われた条件付きのしあわせの範囲内で、結婚し家庭をもって「普通に」暮らしているに違いないと。同じようにいま私が屈託なさそうにみえるとしたら、安定期に入ったからにほかなりません。目に見えない鉄条網の内側で、最適に暮らしていこうと覚悟したからです。

蹲(つくばい)の縁にヒガシニホントカゲ。スマホのシャッター音で驚かせてしまった。ごめんよ。谷中霊園で。

他者との親密な関係づくりを捨てる覚悟

私には夫も子どももいません。けれども独りであることを今ほど幸運に思ったことはありません。私の事実について何も知らない善意の他人が絶えずすぐそばにいることで、かえって私自身が孤独に陥るだろうからです。

事態が急変した場合に被害を回避するための私の行動が、周囲の人たちからみて奇妙な振舞いにしか見えず、その人たちに誤解されながら、同時にその人たちを護らなければならないという負担を避けたいから。少しでもましな状況に改善しようと努力する際の、足手まといになるだろうからです。

近所のお稲荷さんの入り口。谷中三丁目。

「何でもない」

私が当事者になったばかりでまだ混乱のさなかだった頃、ある映画の主人公の心理に自分を重ねたことがあります。

リュック・ベッソン監督の「ニキータ」という映画は、一人の少女が麻薬中毒で警官を射殺した廉(かど)による終身刑と引き換えに、政府の秘密工作員として暗殺者に仕立て上げられますが、一方で普通の少女として恋に落ち、平凡な生き方を渇望し苦悩するという人間模様を描いた作品です。

映画「ニキータ」

少女が秘密工作員であることを知らない恋人と穏やかに過ごす旅先のホテルでも、彼女は容赦なく殺しの指令を受け、バスルームで泣きながらライフル銃を組み立てるというシーンがありました。狙撃を果たすと、ドアの向こうから心配して話し掛ける恋人に「何でもないわ」と答えます。
 
平凡に暮らしたい一方で逃れられない使命に拘束されながら、現実をひとりで抱え込まなければならない映画の主人公の孤独を、まさか自分が実生活で経験することになろうとは想像もしていませんでした。むかしはこの主人公の苦しみを他人事(ひとごと)として鑑賞していましたが、いまは自分が、異常な現実世界と標準的なそれとの間で、まわりからの誤解を回避するための辻褄合せに内心ベソをかきそうになることがあります。

元日の利根川河口付近。暇を持て余して撮った実家の近所の様子。大漁旗の旗めく音だけが聞こえる誰もいない正月のドック。

現在私の実家には高齢の母と、弟がいます。もちろん二人とも私が抱えている問題を知りません。打ち明けたとしても、まず状況を理解できないだろうし、母は自分の娘が精神を病んだと思うに違いありません。たとえ状況を理解できたとしてもその恐怖にもちこたえることはできないだろうと、テレビのバラエティ番組を観ながら笑っている母を見て思いました。

通常ひとは、他人から放っておいてもらえると思えるから心安らかに過ごせるのだろうと思います。24時間365日、誰かの恣意の対象として生きなければならないと知らされて人生終盤を過ごさなければならない高齢の母に、どうマインドセットしろというのでしょうか。

護るものはもつまいと

私は現在、見掛け上普通に暮らすことができています。でも実は、新たに深い人間関係をつくることをあきらめています。恋愛や友人関係も含めてです。

他者と親密な人間関係を築いて気持ちを分かち合う機会をもつことは、人間にとってもっとも大きな幸福のひとつに違いありません。ですが自分にとって重要な存在であればあるほど、このことに巻き込んではならないと、私は自分に課すようになりました。

同時に相手が自分にとって大切な人であればあるほど、私は自分の置かれている現実を内に秘めておける自信がありません。最も受け止めてほしい部分だけを無いことにして新たな関係を築くことは、相手に嘘をついているような気持ちになるだけでなく、そんな自分に愛着を注がれても虚しいだけです。打ち明けても孤独、秘めても孤独、という意味で、私は人間社会から切り離されています。

昨年7月の参院選投開票日の翌朝。開票立会人を終えて集計会場をあとに眠気に襲われながら眺める東京スカイツリー。午前四時前でも蒸し暑い。航空障害灯が焼けた鉄のように見える。

私は当事者としての自覚を持ちながら、一社会人としてより幸福になるための努力を試みたことがありますが、そこには必ず工作員が用意されることを知りました。それらは軽率に人に話すことが憚られるようなものばかりで、実行者側のそのために注ぐ惜しみない努力に初めは驚いたものです。実行者側はターゲット個人が社会的に無力であるように徹底的に工作します。私が幸せになろうと努力する過程に必ず入り込んで来ます。

出過ぎた真似はするな。実験用のラットとして、毎日ちょっとした苦痛に耐えて大人しくしていれば餌に困ることはないのだ。だがケージを破るような真似は許されない。つまり本当の自由は許されないのだ。おまえの人生は二度と自分でコントロールすることが出来ない。おまえが死ぬまで見ているから。そんな警告が聞こえてきそうです。
 
だからこそ決めました。もしも重要な人間関係を迫られたら自分から距離をおこうと。大切なものは持つまい。愛する者は持つまい。護るものはもつまいと。なにかあったらただちに単身でその場から離れられるように。自分以外の何かが傷つけられるのを見て、私がつらくなる場面を回避するために。



いまの私があるのはこのお寺とご縁があったからです。これ以上ご迷惑が掛からないように、2018年2月以降坐禅会に参加することを控えていますが、数年前アマゾンのレビューで感謝の気持ちをお伝えしました。 

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