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はじめまして。

いまの日本でどれくらいの方々が、私がここに残そうとしている事実をご存じでしょうか。すでにそれをご存知の方々は、それについてどんなイメージをお持ちでしょうか。とても関心がある反面、知るのが怖い自分がいます。

8年前の今頃、この風景が灰色に見えていました。前方にJR日暮里駅西口駅舎。

「集団ストーカー」という名称

「集団ストーカー」という呼び方が関係する人たちの間で定着していますが、「ストーカー」という単語が含まれることによって、初めてこの言葉を耳にする方々、もしくは実態をよく知らない人たちに、ストーカー行為のステレオタイプを連想させ、事がらの本質から人々の視線を逸らす効果を持ち合わせているのではないかと考えています。

私はこの現実を多くの方々に知っていただきたいのと同時に、「集団ストーカー」という用語を使うことに恥ずかしさを感じさせられるジレンマに苦しんでいます。実態に比してあまりにも安っぽく、稚拙な印象を世間に与えかねないから。

それとなく本質を嗅ぎつけた貴重な存在である方々から、被当事者*たちが自分たちの置かれている現状を言語化する感覚について疑問を抱かれるのではないか、あるいはこの事実を浅くしか理解しない人々から表面上は同情されこそすれ、内心では偏見の対象にされるのではないか、そして「集団ストーカー」という事象の存在を認められたとしても取り残されるのではないか、と恐れています。このことは、類似する被害当事者(顔認証システムや道路族による被害を訴える方々)による、「『集団ストーカー』と一緒にしてくれるな」といった類いの声が散見される事実からも垣間見られます。

致し方なく「集団ストーカー」という言い方をしていますが、私自身に限っては自分の置かれている現状について正式名称はまだありません。腑に落ちる呼び方がないため、第三者に対する説明のたびに誤解を恐れ、けれど実態は存在する…、それが私にとってのシューダンストーカーです。「集団ストーカー」という名称は、事態の深刻さに対しておそろしく不正確で、不遜な呼称だというのが私の本心です。

いずれにしろ、「集団ストーカー」という忌まわしい名称はあまりにも行き渡りました。

通勤路のひとつ。谷中墓地を突っ切って駅へ。静かで気持ちいい。

説明のつかないことが起こっていることを知ってほしい

これから「集団ストーカー(≒ガスライティング/ギャング・ストーキング)」などと俗称されている事実をテーマに綴っていきます。どうか関心をお寄せください。私のようなとるに足らない一市民がある日突然、被当事者になります。一度目をつけられた個人はパラレルワールドを生きるかのようです。海外ではTargeted Individual(T.I.)(=標的とされた個人)と呼んでいます。

独特な仕掛け〈「見せるだけ」「聞かせるだけ」〉

通常、事件化できるような他害行為が被当事者に対して行われることはありません。はた目には「だから何?」としか言えないような光景がターゲットの目の前に提供されます。「見せるだけ」「聞かせるだけ」の行為で、ターゲットに心理的な負荷を与えます。

誰が、何のために、どのようにして"これ"が運用されているのか、確かなことは分かっていません。動機も、誰が指示を与えているのかも分かりません。ただ、末端で下らない行為に及ぶ現場を担当する人たちは、日本国内だけでもおびただしい数にのぼるだろうことは確かです。

特徴の一つとして、このような行為をすることに直接かかわっている者のみならず、一般の方々が無自覚に、またおそらくは金銭と引き換えに、実行に協力させられている可能性のある点があげられます。加えて私が見たところ、これに加担させられる人々の中には、いわゆる社会的弱者と考えられるような方々や、経済的困窮者、または大人に指示されて行為に及ぶとしか考えられないような子供たちまでもが、少なからず含まれることもわかってきました。

このように「ストーカー」という言葉が含まれますが、個人が個人に対して特別な感情をもつことで行われる既存のつきまとい行為とはそもそも性質が異なります。そうではなく、目的不明なプログラムとでも言い表したいのが私の実感です。

独りになる自由を奪われる

「集団ストーカー(≒ガスライティング/ギャング・ストーキング)」はある個人に対して、生涯スパンで、場合によっては世代に渡って、長期間、継続的に行われます。身体的・精神的に、実行者と標的とがピタリと一体となるかのような干渉がなされ、人の究極のプライバシーでもある"独りになる自由"が奪われます。

みなさんは読書中に、自分が読んでいる本を知らない他の誰かがじっと肩越しに見つめているとしたら、どんな心境でしょうか。そして自分の感情の変化のタイミングに合わせて何かしらの刺激が与えられるとしたら…。そんな状況を想像がつきますでしょうか。

分断

被当事者である私が実感しているのは、人々の想定しうる範囲を大きく超えた何かの意思とテクノロジーが、問題の本質部分からはたらいているとしか考えられないことです。この点が、世間の理解を得にくく、「知らされていない」一般の人々と「知らされた」被当事者たちとを分断しています。荒唐無稽な演劇が日常に溶け込みながら、「知らされていない」人々にとっては無味無臭のうちに繰り広げられます。真顔で現状を語ることがはばかられるほど滑稽で非現実的な場面設定であるがゆえに、まるで証言者側が心神耗弱者のようです。

また、こういった事実が社会一般にまともなニュースとして取り上げられるのを必ず阻止されるという現状があります。精神疾患を意味する"糖質"(統失=統合失調症)などと揶揄され、C級D級のジャンルに封殺されるのが常態となっています。

暮れなずむ谷中三丁目。

被害者としてではなく、一社会人として。

かようにして事実が究明される機会は失われ続け、被当事者側の心の問題として片づけられます。いまや「心の問題」は、問題解決のゴミ箱と化しました。

被当事者になると、筆舌に尽くし難い恐怖と社会からの理解されにくさによる孤独を経験しますが、私は恐怖と心理的な孤立を乗り越え、この現実と共存しながら、被害者としてではなく一社会人として生きることを決意しました。

「まさかそんなことが本当にあるなんて…」でもそれは現実に起こっています。まだ、この事実をご存じではない皆様、どうか知って下さい。私たちの社会は、容易に人の目に触れることのないもう一つの顔を持ち合わせていることを。


●「被当事者」という言葉について

私は、自分を「被害者」と称することに抵抗があるため「被当事者」という言葉を使っています。「被当事者」という言葉が正式にあるのかどうかわかりませんが、「集団ストーカー」という事象自体が公式に実体を認めらていないないのが現状のため、自分なりに納得のいく造語のような言葉を使わざるを得ないのがその理由です。

全てにおいてゼロから実体化していかなければならないのが、「集団ストーカー」と俗称されている問題です。

●「集団ストーカー」という言葉について

上で述べたように、私はこの言葉を嫌っています。とくに自分を、「集団ストーカー被害者」という表現で言い表す必要に迫られたとき、なぜか自分の価値を貶められた感覚に陥ります。実態を正確に表現しているとはお世辞にも言えないこの呼称は、自分を稚拙で不器用な人物に見せる威力があると感じています。名称にこだわる必要はないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は名称は”顔“であり"象徴"だと思っています。それを聞いた瞬間、ある程度正しいイメージを想起させる響きをもつべきだと考えています。むしろ「ガスライティング」という既存の言葉の方が、より一般に寄り添った表現ではないかとも感じますが、これはこれで実態を網羅しているとは言えません。ターゲットの心身が絶えず測位され続けているという主要部分が抜け落ちてしまうからです。かといって腑に落ちる名称がいますぐ思いつくわけでもありません。
ひとえにもどかしい気持ちをわかって頂きたくて、この話題に触れました。現実に、「集団ストーカー」を知っている方が私の身近にいましたが、なんとなく口ごもる様子をとらえた経験があります。せめて一般の方々でも安心して発言できるような呼称で広められるのが、私の願いです。


みぞぐち晃一さん談↓
エキセントリックに行動することが、かえって一般の人からこれらの被害実態を遠ざけてしまいます。
ですから、私のような「普通の人」の立ち位置から、被害当事者の声を届けていく、というスタンスの人が必要なのではないか、と考えている次第です。
………
それらとは、別に、淡々と一般の人として訴えていく姿勢もまた、一歩ひかれてしまった方々に届く手法ではないかと考え、役割分担と認識して、活動をしています。

↑ 一言一句、共感します。
無字右衛門

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