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蒼い黒い宝石のような海岸にて

旅をしていた。久しぶりの感覚。独りで旅していた。ここはアフリカだったか、それともカリブ諸島か、記憶がぼやけていた。水の少ない大地を何時間もかけて移動したのちに着いたパラダイス。速度を落とした電車から、見たことも想像したこともない美しい水辺の景色が広がっていた。

びっくりするくらい砂が真っ黒だった。しっとり、豊かにミネラルを含んだ漆黒。そして、海は青黒くうねり、波が、黒く光る岩肌にぶつかり、白く眩しく砕ける。人々は陽気で、その贅沢な宝石のような海岸を楽しみ、音楽をかけて全身でパーティする。

駅を降り、雑踏のなか、荷物を預けて、早速浜辺へ出向く。人々が座りやすいよう段状に板が置いてある。その一角に座り、まずは売り子さんから飲みものを買い、景色を楽しみ、お腹の底に響いてくるような、大地と大海の生命のような響きを聞く。飲み物を口にする。何の飲み物か、いまいちわからないが、さわやかに甘みがあり、ほんの少しとろりとした黒色の飲み物なので、多分サースパリラか、その類のものだろう。

せっかく浜辺にいるので、動きやすい衣類を買い、お腹が空いたら、売り子さんから、汁っぽいチキンの煮込みにご飯が添えてある、少しスパイシーな食べ物を買い、安っぽいプラスチックのフォークで食べる。

どーっ…どーーっ……

海の轟きをお腹で聞きながら、浜辺の陽気なパーティミュージックがしゃらしゃら耳に届くのを楽しむ。こんな地に今、わたし、存在する。その、ただそれだけの幸せが身体に満ちる。

水に入ろうと、岩場から気をつけながら水に近づき、足をそっと入れると、青黒くうねる海水は驚くほど冷たく、全身に震えが走るが、不思議とそのナイフのような冷たさが、ぺたぺたに貼り付いたような明るい太陽の光と人々の熱気のなかで、すかっと心地よく、この刺激は中毒的だ。

ただ、水に浸かり、浜辺で寝そべり、食べ、飲み、音楽を聞き、行き交う人々と話し、スマホをいじり、居眠りし、また水に浸かる。地元の人も、旅人も、この蒼と黒の宝石のような景色に、刺激と心地よさの感覚的な中毒性に、ただ魅了されている。踊らされている。この街の名前は、古くはパラダイスを意味するものだというが、それ以外の名前がいったいぜんたい、ありうるだろうか。

午後の暑さがほんの少し緩んだ頃から一気に夕暮れが近づく。すると、浜辺にざわめきと目に見えないピリリとした緊張感が満ちてくる。そろそろ宿場を決めて移動しないと。女性、独り旅。空が明るさを失うに連れ、現実的な危険度は高まる。死にたくなければ屋根を探せ。さて、目星をつけて、日本人女性が経営するという簡易宿場に行き先を定め、スマホの地図アプリで場所を確認していると、ざわつく群衆のなかから大柄な女性が私に声をかける。

旅のあなた、夜になるよ、危ないよ。女性が独りでいるところじゃない。ちょっと待ってて、PMailある?

この辺りの国々では、WAでもFBでもなく、PMailが一番使われているSNSだとは知っていた。移動中にアプリをダウンロードをしようとチェックしていたはず。

Yes

とだけ言って、急いでアプリを確認していると女性は、

じゃあよかった。連絡するからね。

と、私のスマホ情報をスキャンし、するりと人混みのなかに消えていった。
確かに、このざわめきは危険な緊張感を強くはらんでいる。

中毒的な心地よさが暴力的な狂騒に変わる瞬間、夕暮れはその合図のよう。はっと先ほどまで寝そべっていた板の上を見る。確か着替えとほんの少しの食べ物を置いていたーー。でも、もう遅かった。段状の板の上には男たちがひしめき合って寝転がりたむろし、なぐさみものにする女や旅人を見定めようと大声で話ながら道行く人々をジロジロ見ている。手ぐすねを引いている。あるいは、そこに陣取りすでに眠っている。そこにしか寝床がない、家はない、そんな男たちが何百と寝転がっている。

今、この一瞬に動くこと、男たちの目に止まらないこと、それが自分の安全を守るためにすべき最優先のこと。その一瞬を、ぎりぎり捉えて、宿場を目指す。手元で、PMailのアプリをダウンロードしているが、なかなか時間がかかる。

少し入り組んだ住宅地に、小さな看板があり、その宿場はあった。深みのある黒っぽい木板でできた小屋のような建物。戸をきしませて開けると、そこはダイニングバーになっており、細身で金髪、スキンヘッドほど短髪の女性がカウンターのまえで、客の相手をしている。日本人女性といっても、ここで過ごして長いのだろうということが、そのたたずまいから、すぐにわかる。安心できる。ここは安全。それが一瞬でわかる。

わたしは、特におおげさに歓迎されることもなく、ただ、そこにするりと入り込んでよいという、居心地のよいメッセージだけを感じながら、旅の荷を置き、カウンターへ向かう。どんな食べ物かよくわからないが、とにかくいいにおいが鼻をつく。どうやら、カウンターに並ぶ容器に入った食べ物のなかから一つ選ぶらしい。差し当たり、目の前にあった、細長く切ってある野菜の一品、切り干し大根を入れたサラダのようにも見えるものを指差し、それに決めたと伝える。すると、女性はさっぱりした笑顔で、

おいしいよ!

とだけ言って、大きめの器に、トングでその切り干し大根サラダ的なものを無造作にざくざく入れ、そこにスープをたっぷり注ぐ。ラムと葉野菜を煮込んだスープだという。見た目は肉の脂が少し浮いているだけの、黒っぽい薄めのスープだが、香りの豊かさがたまらない。小麦粉を練って焼いただけのシンプルな小さなパンを手渡されると同時にスプーンですくい、口にもっていく。

それは、とろけるような、それまで体験したことのない美味しさだった。大地の美味しさを全部詰め込んだような味ーー大地が育てた野菜のうまみ、草原で育ったラムのうまみ、動物特有の血に流れる精力のようなうまみ、そして大地そのもののミネラルのうまみ、そんなものまで感じる。生きているって、食べ物をいただきながら生きているって、こんな味なのだと、これまで何千何万の食事をしてきたはずなのに、生きる、食べて生きるってこんな味なのかと、初めて思う。

女性が、食材について他の客としゃべっている。食べている私も聞きやすいような、自然に私も話の輪に入りやすいような、そんな話し方。隅々まで素敵なかた。彼女の日に焼けた腕、すっと伸びているが押し付けがましくないまっすぐな姿勢、聞き心地のよい声音。そして、ひたすらに美味しい眼前の食べ物。

すべて黒いのである。ああ、そうか。あの豊かにしっとりした真っ黒な砂。大地は黒く、豊かで生命を私たちに与えてくれる。生命は活力となり、浜辺の男たちを昂ぶらせ狂騒に導き、この女性のような住民の日々を支え、旅人を癒やす。私たちは、この活力を身にとりこんだ私たちは、それで生きる。黒い色をした活力がこの街には満ちており、どこまでも贅沢に、ただ生きることだけをする人がこれほどたくさんいる。

蒼い海の轟きの余韻をまだ耳に残しながら、この蒼と黒の宝石に住む人々の言葉を時折聞きかじりながら、身にしみるようにうまいスープを飲み、屋根のある建物で、我が生命を守ってもらう。旅で味わえるおおよそ最高の体験だ。出会いだ。ここは確かにパラダイス。

そんなことを思っていたら、スマホが鳴る。PMailだ。あの女性だ。現地の女性が、本当に、ランダムに見かけた旅人のわたしに連絡をくれる。彼女の褐色の顔が目に浮かぶ。頭のなかで彼女は太陽のように笑う。なんて豊かなのだろう。気持ちよさで心が満ち溢れた。

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