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穏やかでも怒らないわけでもない話

人から「むいこさんって怒る事無いよね」「怒った事見たい事無いかも」って言われた事がある。
その場ではそうかな~ってやり過ごしたけれどもSNSとかを見ているとお分かりの通り、中身はだいぶブチぎれている。それこそ5秒でノコギリを取り出してお前を丸太に見立てて切ってやろうかと思うぐらいには。

とは言いつつもこれには私もだいぶ心当たりがある。内側ではブチギレているものの、外面は穏やかだったり怒ったりしないこと。

というのも、割と怠惰な理由だったりする。
「怒るエネルギーが勿体ない」「ひとに然程期待をしていない」というだけ。
怒らないというのは優しいのではなく、そういう冷めた思考なんですよっていう。

「怒るエネルギーが勿体ない」っていうのはどういうこっちゃ。それって良い事なんじゃないの?って思うじゃないですか。
要は誰かの為に、何かの為にリソースを裂きたくない。割くのが億劫。割く程その人のことを思っていないからである。
怒るっていうのはとてもエネルギーのいること。それをしないのは優しさじゃなくて、勿論やさしさもあるにはあるのでしょうが、その人に期待をしてないとか、どうなってもいいと思っている事でもあるような気がしている。

後輩がいた。でも私は極力後輩を怒らなかった。というか怒るようなことは無かった。それは然程後輩に多少の期待をしていれども、「この業務就くのは最初なんだからできなくて当然だよな~」という優しいような何処か冷めた様なそんな思考で見ていたのである。

「ひとに然程期待をしていない」というのはそういうこと。その人の為に怒るのって酷いなあとか思う事もあるけれどもある意味では愛の鞭ともいえる。が、令和なこの時代においては怒られたくないという事も気持ちとしてはすごく分かる。私も怒られたくないから。怒られるのも、怒られないのも、どっちがいいんだろうねえとふわふわした頭で考えている。

別に省エネで行きたいわけでもない。根っこが冷え切って覚め切ってどうしようもなく冷静な自分がいる。
「これは私のリソースを割くものじゃないな」とか「私の貴重なエネルギーを費やすものじゃないな」と品定めしている。
そして時には何かが起きたとしてもそれを私がリカバリーをすればいいやという自己犠牲が傍に居る。

そういうわけで。
怒らないというのは本当に優しいのか、穏やかなのかという話でした。


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