田中英光私研究のこと①

それが作家であろうと、映画監督であろうと、アイドルであろうと、誰をどう好きになって、どう向き合っていくのかなどその人の好きにすれば良い話である。

ファン同士のマウントの取り合いみたいな些事を無視することが出来れば、別に誰に迷惑をかけるわけでもないのだからマイペースに追っかけていけば良いと思う。

ただ自分は西村賢太という私小説家を好きになって、その作品に触れている内、本当に作家を好きになるとはこういうことだ、ということを見せつけられたような気になって、それにちょっとでも近付こうと変に足掻くようになってしまった。

西村賢太及び作品内の北町貫多の藤澤清造作品への身銭の切りっぷりを見ると、やはり多少なりともそこに影響を受けてしまうのである。

無論自分のそれなど西村賢太の足元にも及ばないが、それでもそれっぽいことがしたいという憧憬と単なる物欲からしこしこと西村賢太資料というのをコレクションするようになった。

で、そういうことを始めるに当たって外せないのが、田中英光私研究になると思う。

これは西村賢太が20代の頃、入れ込んでいた田中英光について書いた自費で発行した研究誌で、全8巻ある。

自分が西村賢太を好きになったのは、2017年頃でそこからちょっとずつ買い集めて確か2年ほどで全巻揃ったが、その後自分は29歳にして初めて正社員として就職することになった。

別に就職やら安定やらに憧れていたわけではなかったのだが、ひょんなことから無職になり、そのタイミングで面接の話をもらい、断る理由もなく、話に乗った。

別に定職のある人間が西村賢太を好きであってはならない、ということなどあるはずがないが、なぜか自分のようなありきたりの安定に身を置く人間は西村賢太を追っかけてはならないと思い込んでしまい、全てヤフオクに出品してしまった。

しかし、それから数ヶ月が経つとやっぱりそれが手元に無いというのがどうにも寂しくなって、改めて収集を始め、結局は全巻揃えてしまった。

その2回目の収集期に手に入れた田中英光私研究の1巻と2巻はメルカリに出品されているものを購入した。

2冊セットで6万円。この本の相場がどのあたりか掴めないのだが、1万円代くらいで落札されているのを見た気がするから1冊3万円というのはやや割高の感がある。ただこれには一筆箋に西村賢太の自筆が認められた手紙が付いていた。

出品者のコメントによると中野区の喫茶店のマスターに宛てたものであるらしい。

自分はそれで一も二もなく購入してしまった。やや興奮もしていたものだから出品者に対し、「ありがとうございます!非常に貴重なものだと思います!」とやや上擦ったテンションでメッセージを送ったのだが、先方は至って冷静で「はあ、そうですか。じゃあ明日送ります」的な淡々とした返信だったのが、やけに印象に残っている。

この手紙にはごく普通の添え状的な文章が冒頭にあり、カッコ書きで安吾忌のご案内をお送り頂きありがとうございました、といったことが書いてあった。

ちょっと調べてみると安吾忌というのは坂口安吾の忌日である2月17日に東京都千代田区一ツ橋にある如水会館や、新潟県新潟市の墓前で行われているものらしい。

実際西村賢太がその安吾忌に足を運んだのか分からないが、田中英光研究の一環として坂口安吾についても調べており、それで坂口安吾の研究者か何かであろうこの喫茶店のマスターと出会ったということだろうか。

考えても詮無いことではあるが、色々と想像を巡らせる。

この第1巻のあとがきには西村賢太が田中英光研究に向かう意気込みのようなものが詰まっている。この時点で西村賢太節のようなものの萌芽がすでにして見出せるのである。

この時西村賢太は26歳だったらしい。

一巻はシミが付いていた。コーヒージミだろうか。

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