五井先生とお金の話‼️


先に感想

随分昔のお金のお話なのですが、五井先生のおっしゃっる通り、「お金は稼ぐことより、使い方、稼いだ後の遣い方」が大切だと思うのです。
現代において、お金に対する考え方が「儲けることばかり、どんな稼ぎ方で取ってしまえばいいんだ」が横行しています。
お金に対しても綺麗でありたいものですね。


五井先生は金銭に対して淡白であり、潔癖なお方でした。 宗教家というお立場からも特に厳しかったのだと思います。

「宗教家は清貧に甘んじよ。 これは宗教家の心すべき一つの生き方である」(如是我聞)

「富んでいる、貧しいは、お金の多寡(多い少ない)ではなく、お金をいかによく生かして使うか使わないかにある」(如是我聞)

とお示しになっております。

お若い頃のこと。 お礼をいただくのを固辞したけれど、後で気付いたら洋服のポケットにいつの間にかお札が入っていた、というお話を伺ったことがあります。 

後年、「わたしも最近はだいぶ頂くのが上手になった」とおっしゃり、お礼への照れが以前より少なくなられたようでした。

とにかくお金に付着している人間の業想念波動の恐ろしさがお判りなるだけに、安易に頂くことを特に気をつけておられたのです。

 かつて笹川良一さん(日本船舶振興会会長)と永野重雄さん(富士製鉄社長)のお二人が、五井先生を訪ねて聖ヶ丘道場にいらしたことがありました。

体育館のようながらんとした質素な造りの道場を見た笹川さんが、五井先生に多額の寄付を申し出ました。

莫大な資産を持つ笹川財団は、ボートレースの収益の一部を社会のために惜しみなく寄附していました。

ちなみに「天然痘」は笹川財団のお陰でこの地球上から姿を消したと言われています。

また、ある時期、統一会を定期的に開催したことのある東京原宿の明治神宮会館は、笹川財団の寄附によって建立されたものである、という趣旨を記したブロンズの銘板が会館内の壁に掲示してあったのを見たことがあります。

笹川さんの好意的な申し入れに対して、五井先生が鄭重にお断りしたことは言うまでもありません。

「笹川さんのポケットマネーなら有り難く頂くけれどね」と五井先生はおっしゃいました。

宗教法人・白光真宏会がギャンブルの収益から寄附を頂くことを神様はお許しにならなかったのです。

新田道場での個人相談の時のこと、ある会員さんが土地の売却のことでお訊ねしました。

先生のお答えは、売却の時期をもう少し先に延ばしたほうが高く売れるということでした。

先生のご指導に従って売却を見合わせたところ、後日とても高く売れたそうです。

「その人がお礼に来たよ。文明堂のカステラを一箱持ってね。うんと高く売れたんだから、平和運動のために使って下さいって百万円ぐらい寄附したっていいのにねえ。 

「わたしは損な性分だね」と笑いながらおっしゃいました。(神様の本音です)

年末に会員の有志が五井先生へのお礼ということで、それぞれの方が分相応のお礼のお金を祝儀袋などに入れたものを、代表の人が纏めて先生のところに届けにきた時のことです。

先生は感謝をこめてひとつひとつの祝儀袋を手にしておりましたが、ある祝儀袋を手にした時、「これはこの人に戻しなさい」と代表の人にお返しになりました。

「この人は無理をしているからね」とおっしゃいました。 祝儀袋を見ただけで中身の金額とその人の経済状態がお判りになってしまうのです。

巷の宗教家の中には、信者からのお布施を遠慮なくせっせと頂戴している人もいるというのに、五井先生は逆に、困った人には座布団の下から惜しみなくお金を出して、与えて下さっていたのです。

母子家庭三人の住むアパートの部屋代を出していただいたKさん、毎月の生活費を現金書留で送金していただいたĀ県のTさん、赤ちゃんのミルク代を毎月送っていただいたT県のSさん・・・・まだまだどれほどの人たちが五井先生によって救われたことでしょう。

新田道場に本部があった頃の会費は月額700円で、それも道場に来た月だけ払えばよいという会費制度でした。

職員の数もまだ少なかったのですが、給料を払うのがやっとで、いわゆるボーナスと称するものは五井先生個人から頂くという状態でした。

「白光誌が5万部出るようになるといいね。 白光誌の売り上げで職員の給料が払えるようになるとねえ」とおっしゃっておりました。

当時の白光真宏会は、映画の題名ではないけれど、「名もなく貧しく美しく」といったところでした。

「これもみんなわたしが悪いのよ」と先生は恥ずかしそうにつぶやかれました。

* 「名もなく貧しく美しく」 1961年の作品。 最初、木下恵介監督の予定だったが、病気のために松山善三監督に代わった。
聾者同士で結婚した夫婦の戦中から戦後の労苦を描いている。

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