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芙美湖葬送-芙美子は死んで芙美湖に帰った②


みな貧しかった             
過ぎてしまえばただの哀妻物語だ。
想い出が時間と共に浄化されるから。しかし現実はもっと生々しく厳しく切ないものだ。妻が亡くなって既に十七年経った。最近になって、時に彼女の一生って何だったろうと思うことがある。

 幼い頃空襲で逃げ惑い、東京で家族全員死んでしまうより、一人でも生き残った方が良いからと父親に背負われて疎開したが、その疎開先で親戚から苛められ、「おしんより私の方が酷かったわよ」というのが彼女の口癖だった。

 貧しい町工場の娘だったからいい服も着せては貰えなかった。今にして思えば、いいようにこき使われた。そんな時代だったのだろう。中学生の頃、墨田から中野まで自転車で納品をさせられたこともある。交番で道筋を聞き乍ら夕方に着いた。品物を受け取った社長は怒って父親に電話した。こんな子供を納品に使うなら今後は取引しないと怒った。

 一方で小型トラックに自転車を乗せて送ってくれた。そんな自慢とも愚痴ともつかぬ想い出を語り合った。

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満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。