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小説「死ぬ準備」勝手に抜書き編

顔のない男

私が四十歳になった頃の話である。百歳で死んだ母はつくづく私の顔を見ながらいった。
「あのおじいちゃんの孫だものね。人並みに世間に揉まれて出世できる顔じゃないね」と母はしみじみと私の顔を眺めながらいった。
「金のない男は顔のない男と同じだよ」ともいった。
母は辛辣な批評家でもあった。

「もう出世は無理ね。出世する人間はそんな顔していないよ。父ちゃんも駄目だったけどお前も駄目だね。タンコバリのお爺ちゃんに似たのかな。夢が多すぎたのね。もっと現実的でなくちゃ。まるで少年の顔だもの。でもいいよ。母ちゃんの子供だもの。生きていりゃそれでいいんだよ。生んだ母ちゃんの責任でもあるからね。偉くなっても悪いことして捕まるくらいなら偉くならなくていい」

母のいうタンコバリのお爺ちゃんとは六十年くらい前あったことがある。当時は港も整備されていなくて、ハシケに乗り継いで村の浜場へ上陸した。
その浜辺で、松明の明かりの中でそのお爺ちゃんと会った。

写真で見たこともない。
全く面識のない祖父が私にはすぐわかった。しかも暗闇で。灯りは松明である。


血が嗅ぎ分けたのだ。

そこには見慣れた自分の顔があった。いや、違う。かなり老けて萎びてはいるが、私が八十代になったらきっとこんな顔になるだろう。
そうか、この人が祖父なんだと私は納得した。

祖父も私をみつけて名を呼んだ。
祖祖父から繋がっている夢想家の顔が其処にあった。

祖祖父は村でも有名な発明家だった。紬の織り機を何回も改良した。紡いだ商品は上がりが良く、上方から注文が多く入った。若くして資産も遺した。その金でサンゴ礁の遠浅の海から大掛かりな塩田を作ることを思いついた。
その試行錯誤の結果紬で造った資産をなくした。

祖祖父は後でフケモンと笑われた。愚か者という意味である。それでも祖祖父は諦めずにいろんな新しいことに挑戦した。
中組の発明家といわれた。方言で「ナカグイクメン」がその尊称である。中組という村の工面師(工夫の名人)という意味である。

同じような祖父の顔がそこにあった。
その顔を発見させたのも血である。それは冒険家で夢想家の顔だ。まかり間違えばとんでもない財をなすが、多くの場合ハズれる。そんな宝くじみたいな顔である。そんな人生を親父も祖父も祖祖父も歩んだ。 
 
そこを母は笑って語る。
男の馬鹿さ加減を嘲笑し、その癖にしっかり男を支えた薩摩おごじょ「薩摩女」がそこにいる。世にいう男尊女卑じゃない。逆だ。女尊男悲の世界だ。薩摩女は辛辣な現実批判を平気でいう。


その母も百歳でこの世を去った。

最後の一年はすっかり痩せ細って私の顔もよく分らなかった。
太い指は箸のように細くなっていた。波乱に富んだ人生だった。
明治の最後の年に生まれ、平成まで嵐のように駆け抜けた。

女の人生は三段階に別れる。少女時代は純粋に思いだけで生きる。その純粋さ故に、発作的に死ぬこともある。
男を知ったら懐胎の予感で女は死ねない。
子供を産んだら完全に死ねなくなる。子供と自分の命に執着する。

その点、男は阿呆やから、死ぬまで少年の部分を残している。時に死に対する親しみがある瞬間爆発する。それが暴力的になり、発作的な死への親和性になる。中年以降でも、男に自殺が多いのはその為だ。
「単純なんだよ。ようするに」と友人は笑った。彼も同じような衝動に駆られる事が何度もあるという。

「子供のことでね。喧嘩も何回もあるな。大きくなってからもさ。最近もあるよ。ただもう体力がないから喧嘩にはならない。なったらこっちが殺される。時代も悪いんだね、みなパラサイトなんだよ。本質的に」

「パラサイト。分かる?」
「寄生虫だろう」


「そう。寄生虫。もう親に寄生しなければ生きてゆけない。社会に寄生して生きている。社会を育てない。哀れな生き物なんだよ。親に孝行を尽くすとか社会の為になるとか、役に立つとかの考えはないね。母親の子供に対する愛情も同じだな。動物的で盲目的なものではなくなったね。もっと功利的な気がする。良い学校に入れて良い就職先を見つけて、家族全体がもっと豊かになればいい。資産や社会的な評価でその人間の価値が決まる。だからそうでない場合は双方が煩悶する。時に殺したりする。あいてが赤ん坊の場合もある。女が社会化して強くなったせいかな」

金融広報中央委員会という天下りの為のお役所が行ったお金に関する知識によれば、多くの人が老後に必要な資金の手当てが十分でない。
「当たり前じゃないか」と友人はふてくされる。

老後の費用について、「年金のみでは賄えない」と答えた人は78%。このなかで「他の資金で準備する」とした人は37%で、「準備ができていない」が62%だった。準備できていない理由は、「現在の収入では将来に備える余裕がない」が71%に達したんだそうだ。

「この中に株式や債券が入っていたらもっと目減りする。バブル崩壊以前と比べて、株など金融資産で四分の一以下になった、不動産に至っては十分の一近くまで目減りしているから。だから上記試算だって甘い。多くの日本人が、実質的には老後を生きる金など持っていない。俺だってそうだよ。商売を止めた時は纏まった金を持っていたよ。殆ど子供に遣ってしまったな。今の子供って仕事に目移りするんだよ。大学出て大手に入ったけど、結局は三年で辞めちゃった。今度は医療系の学校に再入学した。授業料がたかいねえ。そこを卒業して病院に勤めた。しかしそこも長続きはしなかった。どこかで逃げているんだな」

母にいわせれば、金のない男は顔のない男と同じだった。言っていることはもっと現実的で、年齢なりの顔を持ち、仕事に徹している顔はもっと厳しい顔だということらしい。
そういう意味で私の顔も中途半端だ。

もう日本は顔のない男だらけだ。職業に誇りをもっていない。職業や地位によって社会の評価が極端に違うのも変だ。昔は政治家は政治家の顔をしていたし教師は教師の顔をしていた。

しかもその収入のなかからちゃんと貯蓄もしていた。その貯蓄が目減りすることも、敗戦時を別にすればなかった。
貯める楽しみがあった。そんな意味の資産だ。 

同じ家族の一員になってしまえば取り立てて顔が気になることもない。顔はあくまで外向きの標識みたいなものだ。しかしその標識がなくなっている。何を書いてあるのか判読できなくなっている。みな同じように見える。
しかもこれが世界的にそうだ。のっぺりした顔のない男が街を徘徊している。これは結構不気味な光景だよ。

たぶん一割程度の男しか自分の顔を持っていない。その延長線上に老人もいる。老人はもともと職業もないし目的もない。与えられた年金で何となく生きている。そんな老後も危なくなって来た。若い人はもっと不安だ。どうやって老後を生きてゆけばいいのか分からない。

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満85歳。台湾生まれ台湾育ち。さいごの軍国少年世代。戦後引き揚げの日本国籍者です。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び頑張った。その日本も世界の底辺になりつつある。まだ墜ちるだろう。再再興のヒントは?老人の知恵と警告と提言を・・・どぞ。