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機動戦士ガンダム0090 越境者たち #11 ジュピトリス

 機動戦士ガンダムで描かれた、一年戦争の終結から10年後の世界、Zガンダムとは別の「もう一つの宇宙世紀」の物語を描く。拙作「機動戦士ガンダム0085 姫の遺言」の続編。
 月へ向かったジュピトリスは、月面からの救難信号をキャッチする。ちゃっかりジュピトリスに乗り込んだジュドーは、そこに旧ジオンの軍人らがいることを知る。グラナダに入ったブライトは、ロンド・ベル隊員らに市街地の探索を命じる。コウ・ウラキはキースらと<ローゼズ・ガーデン>を訪れ、怪しげな所はないかと探るが…


1:キャプテン・サウロ

 ケリー・レズナーのいなくなったスウィートウォーターのジャンク屋で、ジュドーは店番を続けていた。彼も参戦して実行された、オーシャンドームでの新型ガンダム奪取作戦の成功報酬として、数年は生活に不自由しないだろうというくらいの金額がケリーの口座に振り込まれていたことを、ラトーラが教えてくれた。彼女はその金を、ジュドーとリーナのために取り置いていた。これで、リーナをロンデニオンにある有名私立高校に進学させてやることができる。あのとき、アナベル・ガトー少佐はその金を「自分の未来のために使え」と言った。それ以来、ずっと、自分が高校を卒業してからの道について、考え続けてきた。考えようとするたびに、新型ガンダムを奪取した、あの日のことが思い出された。
「ちえっ」
 舌打ちをすると、彼はカウンターの上に開いたノートの上に、鉛筆を放り出した。将来のために、何はなくとも勉強しなければ、と思っていたが、少しも身が入らなかった。
 そのとき、店に客らしき男が入ってきた。
「おっ、ジュドー。まだ、ここにいたのか」
「おっさん、帰ってきたのか!」
「おまえにも、ケリーみたいなうまいコーヒーが淹れられるのか、見てやろうと思ってな」
 カウンターのスツールに腰掛けると、サエグサが言った。ジュドーは笑うと、コーヒーを淹れて差し出した。
「ずーっと、グラナダにいて戦闘に参加してるのかと思ってたよ」
「戦闘?」
「毎日のように、ニュースでやってるぜ? グラナダの市街地をかっ飛ばしているドム!」
 サエグサは、うまそうにコーヒーをすするとカップを置いた。
「あんなのは、前座の余興だ。それに、俺は操舵手だ。モビルスーツの市街戦じゃ、することもない」
「ふーん」ジュドーが、頬杖をついた。
「でさ、こっちに戻ってきたってことは、ロンデニオンでも何か事を起こそうっていうんじゃないの?」
「シャングリラだ」
「えっ」
「もうすぐ、木星からジュピトリスが帰ってくる。輸送船乗りには、ヘリウム3運搬の仕事が待っている、というわけだ」
 ガタン、と両手をついて、ジュドーが立ち上がった。びっくりして、サエグサが顔を上げる。
「あ…、ああ、おまえの親父も、ヘリウム3の輸送船に乗っていたんだったな」
「ちょうどいいよ、おっさん。勉強にも、このジャンク屋にも飽き飽きしていたところだ。俺も、連れてってくれよ」
「何言ってるんだ。1日、2日で帰れるわけじゃないんだ。もう夏休みも終わるんだろ」
「ちょっと、そのジュピトリスってやつを見てみたいんだよ。それならいいだろ? なんなら、搬入作業とか、手伝ってやったっていんだぜ?」
「人手は、足りてるんだ」
「金じゃない、おれはもう金には困っていないの、知ってるだろ。違う風景が見たいんだ」
 サエグサは、緑色に輝くジュドーの瞳を見つめながら、まずいことになったと思った。木星圏から帰還するジュピトリスは、すでにブレックス・フォーラ少将の作戦計画のうちにある。
「もしダメっていうなら、俺は密航してでもついていくぜ」
 いきり立つジュドーを前に、サエグサはこう言うしかなかった。
「わかった、じゃあジュピトリスを見るだけだぞ。3日後の朝7時に、スウィートウォーターを出港する。それまでに、宇宙港に来るんだ。いいな?」
 歓喜するジュドーの顔を見ながら、サエグサは、きっとただではすまないだろうと思った。

 全長2キロメートルにも及ぶその巨大な船は、<サイド1>のコロニー、シャングリラの宇宙港に到底入ることはできず、その沖合に停泊していた。サエグサの船でやって来たジュドーは、宇宙港のターミナルから、その威容を眺めながら感嘆の声を上げていた。後部に5基の核パルスエンジンを備えたその巨体の中央両舷には、それ自体が一隻の戦艦ほどの大きさに匹敵するヘリウム3運搬用のタンクが上下に各10基設置されている。その前には船体にはめこんだ輪っかのような重力ブロックが設置されており、独特のフォルムを印象付けていた。
 宇宙港に向かって艀が往復し、木星の資源採掘基地での任期を終え数ヶ月に及ぶ航海を経て地球圏へ戻ってきた職員らが、大きな荷物を携えて港へと入って来る。ターミナルの到着ゲートには、帰還した職員を出迎えた家族らの、再会を喜び合う声が響いている。
 その様子になぜかジュドーは惹きつけられ、そんなはずもないのに、誰か知っている顔が到着ゲートに現れはしないかと、じっと、入って来る人々の列を見ていた。
「少年、君も誰か家族を待っているのか?」 
 不意に声をかけられ振り向くと、燃えるような赤毛の、背の高い男が立っている。燻んだ濃い灰色のジャケットの胸には、木星エネルギー船団のバッジがつけられていた。
「あ、あのー、俺は家族を待ってるんじゃなくて、あの船を見に来たんです」
 ジュドーはそう言うと、外に見える巨大な船を指差した。
「あなたも、あの船に乗って帰ってきたんですか?」
「そうだ。私はサウロ・ダ・シルバ。あの船の船長キャプテンだ」と男は言った。
「どこから来たんだ?」
「スウィート・ウォーターから。ジュドー・アーシタっていいます。高校に通いながら、ジャンク屋でアルバイトしてるんです」
「船が好きなのか?」
「好き、というか…親父が、船乗りだったんだ。地球に届いたヘリウム3を運ぶ輸送船に乗っていたんだけど、事故で死んじまった」とジュドーが鼻の下をこすりながら答える。
「あ、いいんです、俺のことは。家族が出迎えに来ているんでしょう?」
 サウロが肩をすぼめた。
「いや、私も天涯孤独の身だ。ここで、こうして自分の船を見るのが最高の楽しみだ。そして、また船に乗る」
「もう、すぐに木星へ出発するんですか?」
「いや、まだもう一仕事残っている。月面にアンマンという都市があるだろう。ヘリウム3の補給基地になっている。資源を運ぶ船が、集まっているはずだ。そこまで運べば、私の仕事は終わりだ」
 そのとき、通りがかった女性乗組員が彼に目配せをした。
「サウロ、もうすぐ時間よ」
「わかった、マウアー。今行く」
 その彼の腕をとっさに掴むと、ジュドーは言った。
「キャプテン、俺も乗せてってくれよ」
「何だって?」
「親父がどんな仕事をしていたか、船からどんな景色を見ていたのか、もっと近くで見てみたいんだ。それに…、今グラナダでドンパチが起きてるでしょう。仲間がそっちの方へ行ってるんだ。どうしているのか、気になって」
「誰なの? その仲間って」マウアーと呼ばれた女が言った。
「ケリーだ、ケリー・レズナー。それと、えーっと、…そう、アナベル・ガトー少佐」
 サウロが驚きの表情を見せ、マウアーの方を見た。彼らのことを、知っているらしかった。
「いいだろう」サウロが言った。マウアーという女が、笑みを浮かべながら手招きし、ジュドーは巨船へ渡る艀に乗った。

「ジェリド中尉が、消えた?」
 グラナダ基地に入ったブライト・ノア大佐は、戦艦アルビオンの艦長室で、バスク・オム大佐から聞いた意外な一言に首をひねった。
「消えたとは、どういうことなんです」
「エマ・シーン少尉、コウ・ウラキ少尉とともに作戦行動中、敵モビルスーツが地表に出てくる場所を探るため、グラナダの地下坑道に入って行って、それきり消息を絶ったのだ。二人がモビルスーツで陽動する間に地下に潜入し、敵に奪われたガンダムMk-IIを取り戻すつもりだった、というのだが…」
「それで、我々に捜索活動をしろと?」
 うむ、とバスクは頷いた。
「そもそも、あの三人がロンド・ベル隊に派遣されているときに、Mk-IIは奪われたのだ。君らの隊で責任を持って、後始末までするのが筋ではないか。エマ少尉とウラキ少尉を預ける。ジェリド中尉の行方を探し出し、もう1機のMk-IIを回収したまえ」
 そんな、虫のいい話があるか。ブライトは不審に思い、腕を組んだ。
「そのために、我々ロンド・ベル隊を呼び寄せたんですか」
 バスク大佐は慌てた様子で首を振った。
「そんなわけはあるまい。ジャミトフ中将の指令の通り、君たちの任務はここ、グラナダ地下に張り巡らされているとみられる坑道を探索し、敵を殲滅すること。その過程で、ジェリド中尉の捜索も、当然行われることになるだろう」
 バスク・オムが立ち上がった。これ以上話すことはない、というサインだ。ブライト・ノアも立ち上がり、敬礼すると、部屋を出た。隊に戻ってパイロットの面々にこのことを話したら、きっと蜂の巣を突いたような騒ぎになるだろう。侮られてたまるか、とブライトは思った。

2:グラナダ宮殿の謎

「おっひさしぶりです、エマ少尉!」
 グレイファントムのブリーフィングルームを出ると、チャック・キース少尉がにこにこしながら声をかけてきた。グラナダ基地に到着したロンド・ベル隊と合流し、ブライト・ノア大佐から、今後の作戦と取るべき行動について説明を聞いたばかりである。
「いやー、グラナダ市民を悪しきテロリスト集団から守る日々のご活躍、ニュースで見ていましたよ!迫り来るドムの軍団に立ち向かい、敵モビルスーツをちぎっては投げ、ちぎっては投げ…」
「ちぎってもいないし、投げてもいないわ」エマが言った。
「何かご用かしら」
 キースが、人差し指で鼻の下をこすりながら言う。
「今しがた説明のあった、作戦行動ですよ。二人一組で市街地へ行く調査、ぜひ、パートナーとしてお供したいなと思いまして」
 そこへ、コウが後ろから肩に手をかけてきた。
「おまえってほんと、友達甲斐のないヤツだよな、同期の俺には目もくれずにさ」
「いやー、そんなつもりはないんだけどさ、なんせエマ少尉は、すでにグラナダで1ヶ月、神出鬼没な敵と対峙してきたわけでしょう。この市街地の怪しいスポットも、知り尽くしているわけだ。それで、ぜひご一緒したいと…」
「俺だって、この1ヶ月エマと組んで出撃していたんだぜ?」
 そう言うコウに向かって、キースが小声でささやく。
「そんなことは分かっている。けど、任務中に私服でダウンタウンへ繰り出して、デートなんかできちゃうんだぜ? 俺はそこまで考えてるんだ」
「あー、はいはい」そう言ってコウが肩をすぼめると、二人を見ていたエマがほんの少し、頰をゆるませて言った。
「お友達を大切にね、キース少尉」
 去ってゆくエマの背中を見ながら、あーあ、とキースがため息をついた。
「あーあ、じゃないよ、まったく」コウが言った。
「気丈に構えているけど、ああ見えてエマ、結構落ち込んでるんだぜ、ジェリド中尉のことで。責任感の強い人だからな、ダウンタウンに繰り出そう、なんて気分じゃないって」
「それだけか?」キースが、コウの顔を見て言った。
「それだけって?」
「それだけって…、あのさ、見目麗しき男と女、なんだぜ? 他にもいろんな感情があるだろう?」
「あ…、あ、ああー、そ、そういうこともあるかもしれないなあ」
 コウは頭に手をやった。
「しゃーないな、おまえと組むか」キースが言った。

 ブリーフィングのあと呼び出され、エマはグレイファントムの艦長室のインターホンを鳴らした。室内に招き入れられると、彼女はデスクの前に立ち、すっと背筋を伸ばして敬礼した。
「ここでは、堅苦しい作法は無用だ、リラックスしてくれていい、彼のようにな」
 ブライトの視線の先を見ると、アムロ・レイ少尉が自分の部屋にいるようなくつろいだ様子で座っている。君もかけたまえ、というブライトの言葉にうなずいて、エマはデスクの前のもう一脚の椅子に腰掛けた。
「君に、頼みたいことがあって来てもらった」ブライトが言った。
「アムロ少尉とともに、ジェリド中尉が消えたという現場へ行ってもらいたい。君たちの戦闘レポートから見て、そこに、敵の本丸へ至る地下坑道があることは間違いない。ジェリド中尉の行方について、何か手がかりがつかめるかもしれない」
 ブライトはそう言うと、壁面の大型モニターに、グラナダの地図を表示した。
「ここが、ジェリド中尉が行方不明となった問題の廃プラント。もともとは、ジオン公国屈指の大企業、ジオニック社のモビルスーツ製造工場だった。この廃プラントの地下から、敵モビルスーツが出てくるところをエマとウラキは目撃している。そうだな?」
「ええ」エマが答えた。
「大きなエレベーターで、地下からせり上がってくるように見えました」
「つまり、その地下に基地か格納庫、あるいはそれに通じる坑道があるはずだ」
「それを確かめるために、ジェリド中尉はバギーで地下へ降りて言ったんです」
「しかし、通信が途絶えた?」
「彼が入っていくと同時に、敵モビルスーツが出てきて戦闘状態に入りました。私とコウとで、敵の機体を行動不能にしたのですが、その後ジェリトとは連絡がつかなくなったんです。地下を降りていったところに、彼のバギーだけが残されていました」
 隣に座っていたアムロが、小さく手を挙げた。
「一つ、エマ少尉に質問していいですか」
 ブライトが頷き、エマが「どうぞ」と答えた。
「なぜ、ジェリド中尉は廃プラントへ潜入するのに、ジムIIでなく、バギーを選んだんですか?」
「理由は、二つあります。一つは、バスク・オム大佐が地下坑道へのモビルスーツでの侵入を禁じていたこと、もう一つは、廃プラントの奥にあるであろう、ガンダムMk-IIを見つけ出して奪還するため」
「つまり、彼は奪い返したMk-IIで戻ってくるつもりだったわけだ」アムロが言った。
「彼らしい作戦だ」
「楽観的すぎるな、俺から見れば」ブライトが言った。
「楽観的でなければ、なれないよ、パイロットなんて。そうでしょう、エマ少尉」
 アムロの言葉に、エマが、肩をすぼめて言った。
「そういう彼だから、私たちも引っ張られてきたんだと思います。ジェリド中尉は、地球連邦軍で将軍になる最初のモビルスーツ・パイロットになってやる、と言っていました」
「ぜひ、そうなってもらいたいものです」アムロが言った。
「では、君たち二人にジェリド中尉の行方について手がかりを掴むための捜索、そして地下坑道の内部状態の把握についての調査を任せる。車両はグレイファントム搭載の装甲車を出させよう。地下坑道内の通気状態も不明だ。ノーマルスーツを着用するように。以上だ」
 二人は立ち上がると、さっと手を上げて敬礼した。

 ノーマルスーツに着替えたエマとアムロは、装甲車で基地からグラナダの都市ドームへ入っていった。砲塔も備えているが、ブライトがこの車両を使用するよう指示したのは、レーダー・通信機器が充実しているからである。車載カメラの映像は、グレイファントムのブリッジのモニターで見ることができるようになっている。
 幹線道路に乗ると、ハンドルを握るエマがふうっ、とため息をついた。
「いつも、市街地に出るのは夜なの。彼らはたいてい、夜になると出てくるから。昼間、市街地に出るのは初めてかもしれない」
「市街地には、緊急事態宣言が発令されていて外出制限もかかっている、と聞いたけど、みんな、あまり気にしていないようだね」
「最初の2、3日だけだったわ、人気が消えたのは。すぐに、慣れてしまうのね、人間って」エマはそう言うと、ちらっとアムロの表情に目をやった。
「噂に聞きました、一年戦争のとき、現地徴用兵からガンダムのパイロットになったって。驚きました。私と同じくらいの年齢でしょう? 10年前といえば、まだ10代半ばだったはず」
「生き延びるのに必死だった、それだけのことさ」アムロが言った。
 二人の乗る装甲車は、グラナダの中心部にさしかかっていた。エマが言った。
「戦後除隊したあと、大学を中退して士官学校に入ったそうね。戦時中、生きるか死ぬかの経験をした場所に、なぜ、戻ってこようと思ったの?」
アムロは、ハンドルを握るエマの横顔をじっと見つめ、それから視線を正面のモニターへ移した。そして、言った。
「あのとき、ある人にこんなふうに言われた。あなたはなぜこうも戦えるの、守るべき人も、まもるべきものもないというのに、って。確かに僕には守るべき家族もいなかったし、守るべき故郷もなかった。誰かのためでなく、ただ自分のために戦っていたと思うしかなかった。でも除隊して、普通の学生になって地球で暮らしていたとき、友人が教えてくれたんだ。まだ連邦軍がモビルスーツを持っていなくて、地上でもジオン軍にやられっぱなしだったあのとき、目の前に現れた白いモビルスーツが、希望の光に見えたって。それで、思ったんだ。僕にまだその力があるなら、戦いの中で希望の光を見せるものになりたいと」
「素敵なことね」エマがそう言うと、ふふふと笑った。
「戦闘訓練の相手になったときは、絶望でしかなかったけれど」
 信号で停車すると、ものめずらしげなふうをした人々が濃い灰色の迷彩色が施された彼らの装甲車を写真におさめているのが見えた。その様子に、アムロが目を丸くする。
「おかしいでしょ? ここの人たち。私がMk-IIで出たときだって、近くで見ようと野次馬がよってくるのよ。モビルスーツは、ここではそう珍しくもない、連邦軍のが珍しいだけで」
「ここに住む連中が、気に入らないようだね」
 アムロの言葉に、エマは肩をすぼめる。
「グラナダ市民は、反政府組織と連邦軍との戦闘に巻き込まれている当事者のはずなのに、なんだか、まるでそれを、面白がっているかのように見物しに来たりするの。こっちは生死を賭けて戦っているというのに」
 エマはそう言うと、車を止めた。廃プラントの目前まで来ていた。彼らの車両を見て、警備についていた警官が規制線を解いた。廃プラントの出入り口には、先にエマとコウが堕としたドム2機が、折り重なるように倒れたまま放置されている。
 エマはその横をすり抜け、ジェリドがバギーで降っていった通路へ装甲車を進めた。

「うわー、きれい!」
「すごいわね、こんなに咲き乱れて」
 その豪奢な王朝時代のヨーロッパ風の正門をくぐったとたん、すっかり行楽気分になったケーラ・スゥ少尉とチェーン・アギ准尉が、園内を彩るバラの花に声を上げる。喜ぶ女子の顔を見て、チャック・キース少尉は得意満面な表情を浮かべた。もちろん、ブライト・ノア大佐が命じた通り、私服に着替えての偵察任務である。コットンのシャツにサブリナパンツをあわせたチェーン、黒革のライダーズジャケットにダメージジーンズ姿のケーラは、連邦軍士官という姿をすっかり忘れさせる出で立ちである。
 結局同期のコウと行動することにしたキースだったが、それでは物足りないと、ロンド・ベル隊の同僚パイロット、ケーラ・スゥと技術士官のチェーン・アギを誘ってダブルデート風と決め込んでいた。石畳の道に導かれ<ローゼズ・ガーデン>に入っていった四人を、花盛りのバラの香りが包み込む。
 その香りにむせながら、コウが言った。
「なんだって、こんなただの公園みたいなところを選んだんだ? 遊びじゃないんだぜ。わかってんのか、キース」
 口の前で指を立てて、キースが小声で言った。
「おまえ、あの豪華な正門のアーチの上についてた紋章を、見なかったのか?」
「え? 紋章?」
「ジオン公国の紋章が、ついていただろ? ここはグラナダがジオン領だった頃、公王の離宮があったところなんだよ! ケーラとチェーンにどこへ行くのか聞いたら、ここが絶対怪しいって、地図を見た時からそう思ってたって言ったんだ」
「へー、そうなのか」
 コウはそう言うと、はしゃぎながらバラ園を見て回る二人の姿を目で追った。どう見ても、そんなことを考えているようには見えない。先に進んでいる二人に追いつくと、チェーンが言った。
「宮殿の中も見学できるし、カフェもあるみたい。行ってみない?」
 男女四人の偵察隊は、宮殿へ向かう小道を歩いて行った。
 途中、バラ園の中央を飾る、大きな円形の噴水池があった。池の周囲にはギリシア風の彫刻が並び、真ん中には、円盤をいくつも重ねたような形の、ひときわ背の高い噴水塔が立っている。しかし噴水の水は止められていた。
 池の横を歩きながら、静かな水面を見ていたコウは、奇妙なことに気がついた。池の底から、小さな気泡が筋のように上がっている。
 そのときだった。
「ようこそ、我が<ローゼズ・ガーデン>へ」と、朗々と響く男の声がした。顔を上げると、四人の前にすらりと背が高く、肩まで伸びた銀髪を後ろでしばった男がいた。
「へー、あんた、ここの人? このバラを全部、育ててるの?」軽い調子で、ケーラが聞いた。
「私はこのバラ園の園長、ガトーと申します。あなたが今見ているそのオレンジ色の大輪のバラの名は、アナベル。すべて私が丹精込めて育てているものです」
「あの、ここはもともとジオン公王の離宮だったそうですけど、その当時から、こんな素敵なバラ園があったんですか?」とチェーンも聞く。
「そのようです、というのも私がここへ庭師として招かれたのは戦後、ここが地球連邦に割譲されてからで、公園として市民に開放するために、戦争で荒廃していた庭園を復元したのです」
「そうなんですか」コウは訝しげな表情でその庭師を見た。その声に、聞き覚えがあったからだ。ガトーという名前にも。
 はっ、としたそのとき、ガトーが言った。
「変わったネックレスをしているな、君は」
 慌ててコウが、首元に手をやる。うっかり、連邦軍の認識票をつけたままだったのだ。
「あはは、こいつ、すっごいミリオタでしてね、こういう小物に目がないんですよ~」とキースが茶化すように言葉をはさんだ。
「ここに来れば、ひょっとしてジオン公国時代のモビルスーツが見れたりするんじゃないか? なんて言って…」
「宮殿の中庭に、代表的なものが展示されているので、見ていくといい」ガトーが言った。
「歴史を変えた、名機だからな」
「あ、ありがとうございます!」コウとキースは声を揃えて礼をいうと、宮殿に向かって駆け出した。

 カーブを描いて地階へと降りていくと、目の前に一台のバギーが現れた。車載カメラの映像をグレイファントムのブリッジでモニターしているブライトから、通信が入る。
「あれが、ジェリド中尉の乗っていたバギーか?」
「ええ、そうです。間違いありません、でも…」と、エマが答えに躊躇する。
「なんだ?」
「最初に発見したときから、少し場所が変わっているような気がします」
「何か手がかりがないか、確認してくれ」
「了解」
 そう言うと、エマとアムロは装甲車を降りて、バギーへ近づいていった。周囲に光源はなく、ヘッドライトの灯りだけが頼りである。
 バギーの横までたどり着くと、運転席を覗き込んでエマが言った。
「変ね、助手席のシートの上に、何か書類のようなものがあるわ」
 手を伸ばしてそれを取ろうとした次の瞬間、アムロが何かを悟ったように目を見開いて叫ぶと、彼女の肩を掴み、抱きかかえるようにして後ろに飛び退いた。
 ドーン!
 地面に叩きつけられるような衝撃をエマは感じた。顔を上げてみると、バギーは木っ端微塵に飛び散っていた。
「仕掛け爆弾だ」アムロが言った。
「ジェリドを探しに、必ず誰かティターンズの隊員がここに戻ってくると見込んで、仕掛けられていたんだ」
 胸を押さえながら、エマが立ち上がった。怪我がないことを確認すると、二人は装甲車のシートに戻った。ズーン、ズーン、と遠くから、地響きのような足音が聞こえてくる。モビルスーツの歩行音に違いなかった。
「ここへ来るまでに、物珍しげに装甲車をカメラで映していたヤツがいただろう?」アムロが言った。
「君がMk-IIで出動したときに寄ってきた野次馬も、そうだ。ただの見物人じゃない、多分…」
「市民が私たちの行動を、監視しているってこと?」
「そういう人間が、市民の中に紛れ込んでいるってことさ」
 姿の見えないモビルスーツの足音が、近くでもなく遠ざかるでもなく響き続ける。誘っているのだ、とアムロは思った。
「この坑道の奥へ進みましょう」エマが言った。アムロが頷き、エマはモビルスーツの足音のする方は無視して、装甲車を通路の先へと進めた。

 通路は2車線で、黄色いセンターラインが引かれている。照明は落ちているが、ごく一般的な地下通路に見えた。頭上に、「場内徐行」と注意を促す標識が現れる。それと並んで行き先を表示する標識もあった。
「第1ターミナル…、第2、第3。ターミナルって何だろう、この先に、船の発着場があるのか?」   
 アムロの言葉に、ブリッジからブライトが答える。
「情報部の資料によれば、ジオニック社は構内から直通する専用の宇宙港を持っていたらしい」
「構内のマップデータはないんですか?」
 エマの問いに、ブライトは首を振った。
「敗戦時に、ジオニック社に関するデータはすべて持ち去られ、施設も破却されていたそうだ」
「ここまで見た限り、遺体らしきものは見当たらなかった。ターミナルから外部へ連れ出されたのかもしれない。様子を見てみよう」アムロが言った。
 構内に残る標識に従い、エマは地下通路を「第3ターミナル」に向かう矢印で右折した。通路の先に、黄色と黒の警戒色の斜線で縁取られたゲートが現れ、自動で開いた。さらに先へ進むと、通路は緩やかに上ってゆく。二つ目のゲートが開くと、目の前の視界が広がる。プラットフォームに出てきたのだ。頭上に張り出した構造物があり、そこがおそらく指令室と思われた。そして左方には、艦艇のブリッジにあるような、床から天井まで届く巨大な窓があり、その外側が、船の停泊地となっている。そこからは、第1、第2のターミナルまで見渡すことができた。二人はその光景に、息を飲んだ。第3ターミナルの停泊地は空いていたが、その向こうには巨大な船が停泊していたのだ。
 暗闇の中、彼らの装甲車のヘッドライトが照らし出したその船体は赤かった。アムロはそこに、ジオンの紋章が記されているのを見た。
「どういうこと?」エマが思わず、声を上げる。他にも数隻の艦艇があるのが見える。
「ジオン公国時代のものが、そのまま残っているってこと? それとも…」
「ジオンの残党…」アムロが言った。
「ただのゲリラじゃない、相当の戦力を隠し持っているってことだ」
「ジェリドはもしかして、あの艦艇の中に?」
 エマはそう言うと、装甲車を降りてプラットフォームの窓へ近づいて言った。
「ああっ!」
 その声に、アムロも駆け下りてゆく。そこから見えた宇宙港の向こうの宇宙は、低空に滞留する多数の船で埋め尽くされていた。
 
 そこから見えたものを録画すると、アムロとエマは装甲車に戻った。
「そこから、廃プラント内部へ行くことはできるか?」とブライトの指示が飛んでくる。
「行ってみます」エマが答えると、元の通路からプラント内部へ向かう通路を探した。
 その通路は、すぐ見つかった。ターミナルへモビルスーツを搬入するためのゲートが大きく開かれている。内部には、空のモビルスーツ・ハンガーがずらりと並んでいた。
 ゴォー・・・
 彼らの気配を感知したらしく、敵モビルスーツが近づいてきた。
「来たわ、ドムが2機、まだいたのね?!」エマが叫ぶ。
「こんな地下プラントで、ホバリング走行するなんて!」
 背後から、ドムが近づいてくる様子を後部モニターが映し出している。ドムは装甲車を射程に入れると、ジャイアントバズを構える仕草を見せた。
「走らせるんだ、もっと早く!」アムロが言った。
「相手の武器はバズーカ砲だ、車両のような背の低いものを撃つのは苦手なんだ、大丈夫、逃げ切れる!」
 ジャイアントバズが炸裂し、地下プラントに轟音が響き渡った。砲弾は彼らの車両の通り過ぎたすぐ後ろで爆発し、コンクリートの地面に穴を開けた。
 それをものともせず、ドムはスピードをあげて迫ってくる。アムロは砲塔を180度回転させると、迫ってくるドムへ向けて砲撃した。一瞬、ドムがひるんだように見えた。エマはアクセルを踏み込むと、急ブレーキをかけながらハンドルを切り、即座に見つけた自動車専用の通路に逃げ込む。
 通路の先に、外の光が見えてきた。二人は顔を見合わせた。ジェリドの行方の手がかりは、何もなかった。しかし、そこで見た光景は、この戦いの行方を示しているはずだと確信していた。

3:救難、ジュピトリス

 はぁ、はぁ…
 ヘルメットの中で、自分の呼吸音だけが響いている。ノーマルスーツをしっかり着込んでいるはずなのに、身を切るような寒気を感じる。
 おれも、ここまでか…
 冷たい月面のゴツゴツとした岩陰に身を横たえ、朦朧とする意識の中で、ジェリドは夢うつつになっていた。レコアを脅して廃プラントの地下通路を進み、第3ターミナルに停泊する船に乗ったことは覚えている。その格納庫に、確かに彼はMk-IIの黒い機体を見たのだ。それが今は一人、荒涼とした月の大地に横たわっている。
 あの父親を、きっと見返してやると誓ったのに、おれはこんなところで一人孤独に息絶えるのか…。彼は、パイロットになると宣言したとき鼻で嗤った父のことを思った。
 彼の父親は地球連邦の中心的都市のひとつ、ニューヨークで不動産業を営み若くして成功を収めた実業家だった。その野心はやがて政治へ向けられ、連邦議会議員となって中央政界へ進出した。父はそれだけでなく、息子にもそうしたエリート街道へ進むよう、執拗に仕向けた。ジェリドもまた、その期待に応えようと勉学に励み、成績優秀な生徒として学校ではトップを争っていた。そう、一年戦争が始まるまでは。
 開戦直後の激戦で連邦軍が壊滅的な打撃を受け、ジオン軍が地球上へ侵攻を開始すると、父はその特権と経済力を駆使して、妻子を中立コロニーとなった<サイド6>に疎開させた。そこは安全で、戦時であっても何ら平時と変わらない生活を送ることができた。ジェリドは<サイド6>の有名私立高校へ編入され、そこでもトップの成績を収めた。だが、彼はかつての同級生らが戦災に巻き込まれ、あるいは父母が徴兵されて前線に出ていることを知り、自分だけが、父親の地位からくる特権によって安全な場所に逃れたことに後ろめたさを感じた。一方で<サイド6>では、周囲がジオン軍の快進撃、とりわけ戦争の形式に変革をもたらした新兵器モビルスーツ・ザクの活躍に湧き上がるのを、苦々しい思いで見つめていた。勝利した方についていく、というのが<サイド6>の住民のスタンスらしかったが、彼自身は自分の地球出身というアイデンティティを消し去ることはできなかった。
 しかし、ある日そんな彼の鬱憤を吹き飛ばすような出来事が起こった。たまたま、<サイド6>から至近距離の空域で、ジオン軍と地球連邦軍との間で戦闘状態となり、それを<サイド6>のテレビクルーがライブ中継したのだ。連邦軍側の船は最新鋭の戦艦らしかった。
 その中継に、高校生のジェリドは目を奪われた。ジオン軍のモビルスーツ、リック・ドムが次々と撃破されていく様子を、テレビカメラは捉えていた。連邦軍にも、モビルスーツがある! しかも、圧倒的な速さ、強さでカメラはほとんど、その姿を捉えることができずにいた。この戦争、勝てるかもしれない。ジェリドはそう思うと、今までの鬱々とした気分が霧散した気がした。地球出身だからといって、もう明日から学校で身を小さくして過ごすことはないのだ。
 彼は、カメラが一瞬捉えたその白いモビルスーツの、二本のツノと二つの目を心に焼き付けた。そのモビルスーツが、連邦軍の試作機RX-78、通称「ガンダム」であると知ったのは、士官学校に入ってからのことだった。

 戦争が終わって地球に戻ると、ジェリドは父に言った。俺は大学には進学しない。士官学校に入って、モビルスーツのパイロットになるんだ。すると、父は彼を見て「ふん」と鼻で嗤った。
「パイロットだと? ふざけるな。あれはモビルスーツを操縦するから便宜上パイロット、と呼ばれてるが、実質は機械化されたただの歩兵だ。戦場では常に最前線に投入される、消耗品なのだ。おまえのような優秀な人間が、目指すようなものではない。軍人になるのはいい、だがなるからには、将軍になれなければ、意味はない。歩兵から将軍になる道があるか? ないだろう。少なくとも、地球連邦軍にはな!」
 そのとき、ジェリドははじめて父に反抗した。政治家として戦争を防ぐことができず、ジオンの侵攻を招いて地球内外の連邦市民に多大な犠牲を払わせたことや、戦災により荒廃した都市の有様を見ても、父はなんら心に痛痒を感じていないように見えた。実業家として、父は「復興需要がある」と喜んだ。ジェリドはそんな父を見て、彼のようにはなりたくないと思った。そして反対を押し切り、自分の進むべき道を選んだ。
 何も、間違っていなかったはずだ。連邦軍の再編が実施され、精鋭部隊ティターンズのモビルスーツ隊に選抜されたとき、彼はようやく父に自分を誇れる気がした。しかし、今彼は身一つで、月面に放り出されている。
 ジェリドは生命維持装置につけられているボタンを押し、救難信号を発した。

 地球圏と木星との間を往復する巨大資源輸送船ジュピトリスのブリッジは、彼の知っている船のブリッジとはスケールが違っていた。その男、サウロ・ダ・シルバは船長の権限で、ジュドーをブリッジの特等席に座らせてくれた。<サイド1>から月面都市アンマンまでの航路には、海賊対策として護衛艦がつく。護衛の担当は各サイドの持ち回りになっており、今回は<サイド3>の艦艇が左右に二隻ずつ、ついていた。その巨船は、すべるように月への航路を進んでゆく。
 やがて船は、月の重力圏へと降下していった。荒涼とした闇の大地に、茫洋とした丸い光に包まれた面が見えてくる。
「あれは?」
 ジュドーの問いに、サウロが答えた。
「グラナダだ。月の裏側にある都市国家だ。一年戦争が終わるまでは、<サイド3>が領有していた」
 通り過ぎてゆくその都市の放つ光を、ジュドーはじっと見つめていた。毎日のように、あの都市で起こっている紛争がニュースで報じられている。あの光の中に、ケリーやガトーもいるのだろうか。
 グラナダ上空を通過した船は、ますます高度を下げてゆく。目指す場所、アンマンはグラナダから1000kmほどしか離れていない。
 そのとき、オペレーター席のロド・サーマンが声を上げた。
「キャプテン、救難信号を受信しました。現在発信源を探知していますが、どうも、月面のどこかのようです」
「救難信号だと? 護衛艦ではないのか?」
「間違いありません、連邦軍のコールサインのようです。映像、入ります」
 サーマンはスクリーンパネルに発信源と思しき地表の映像を映し出した。
「何も見えんぞ?」
 そういうサウロの横で、ジュドーも目をこらす。サーマンはさらに映像を拡大した。
「あ、あれ? なんか、人が倒れているように見えるけど…」
 ジュドーが指差した先を、サーマンや他のブリッジ要員も目をこらす。たしかに、その小さな点は人間の形をしていた。
「どうします? キャプテン」
 サウロは腕組みをすると言った。
「護衛艦は、気づいていないのか?」
「どうでしょう、我々の船とは通信精度が違いますからね、それに、コールサインが連邦軍です、もし気づいていたとしても、厄介なことに巻き込まれたくないのでは?」
 それはこちらも同じだ、とサウロは思ったが、事故で命を落とした船乗りを父に持つジュドーの手前、見過ごしにするわけにもいかない。
「救難艇を出そう。ロド、マウアー・ファラオを呼べ」
「了解!」応答すると、ロドはマウアーを呼び出し、船長の指示を伝えた。

 指示されたポイントには、確かに誰かが倒れていた。救難艇のサーチライトに照らされて、黒っぽいノーマルスーツが、岩にもたれかかるように、そこにある。マウアーは、近くに救難艇を着陸させると、予備の生命維持装置のパックを手にして、そのノーマルスーツの人物に近づいていった。
 身を屈めると、ヘルメットのバイザーを覗き込む。しかしバイザーは曇っており、表情を見て取ることはできない。その人物は大柄で、おそらくは男性、パイロットか何かなのだろう。生命維持装置はかろうじて作動しているが、残り時間は30分を切っている。マウアーはノーマルスーツのヘルメットに自身のヘルメットを当て、男の体を揺さぶりながら声をかけた。
「もしもし、大丈夫ですか? 救難信号を受信して、助けに来ました。もしもし、もしもし!」
 それまで強張っていた男の体が、突然ぶるっと大きく震えた。
「もう大丈夫、助けに来ました」マウアーが繰り返すと、ヘルメットがうなずくような動きを見せる。男はゆっくりと腕を上げた。マウアーはその手を取ると、言葉を続けた。
「私はマウアー・ファラオ、ジュピトリスの乗組員です。生命維持装置のリミットが、あと25分ほどになっています。新しいパックに切り替えますので、しばらくじっとしてください」
 わかった、というように、男がぎゅっと手を握った。マウアーは男の体を起こし、背中の生命維持装置のスイッチをオフにすると、素早く新しいものに付け替えた。
「どうだ、マウアー、遭難者は生存しているか?」救難艇で待機する医師のハサンから、通信が入る。イエス、連れて帰るわ。そう答えるとマウアーは地球の6分の1という月の重力の助けを借り、自分より大柄な男の体を担ぎ上げて救難艇へと運び込んだ。

「どうします? 連邦軍に連絡して、引き渡しますか?」
 ブリッジで、オペレーター席からサーマンが尋ねる。サウロは腕組みをして、じっと前方を睨んでいた。救助したのは連邦軍グラナダ基地所属のジェリド・メサ中尉、モビルスーツのパイロットらしいが、本人はそれ以上のことを明かそうとしない。なぜ、グラナダから遠く離れた月面に、機体もなしに横たわることになったのかも。
「いや、今はいい。今後の我々の行動予定に支障をきたす。すべては、アンマンに到着してからだ。男の容体は?」
「かなり衰弱していますが、命に別状はないそうです。ハサン先生が診察して、現在はメディカルセンターの一室で療養中です」
「わかった」サウロが言った。
「いいか、誰も病室に近づけるな。マウアーに、監視に入るように言ってくれ」
「了解!」

 救助活動を終えて自室で着替えを済ませたマウアー・ファラオは、通信を受けてメディカルセンターへ向かっていた。いつも、部屋へ戻ると出迎えてくれる彼女の猫が、あとからついてくる。遭難者の入った病室の前までくると、彼女は猫を抱き上げて扉を開けた。
 ベッドの上で、男は体を起こしていた。ニャア!と彼女の猫が鳴いたので、驚いた様子で振り向いた。
「猫がいるのか、この船には」
 マウアーは、ベッドサイドのスツールに腰掛けると、膝の上に猫を乗せた。
「この子は、この船の中で生まれたの。あなた方の乗る船とは違うわ。木星まで往復2年の人生がある」
「どこへ向かっているんだ?」
 濡れたような濃い色の瞳で、女が彼を見つめた。照れたように視線を逸らすと、男が言った。
「おれは、ジェリド・メサ、連邦軍中尉だ。この船はどこへ向かっているんだ?」
「私の名前は、マウアー・ファラオ。この船は最終目的地のアンマンへ向かっているのよ。もう間もなく到着する予定」
「あんたが助けてくれたのか、おれを」
 マウアーが、頷いた。
「ありがとう」
 ジェリドは、首から下げた認識票に触れた。病衣を着せられており、ノーマルスーツもその下のアンダーウェアも、周囲には見当たらない。その様子を察したマウアーが、言った。
「まだ、休んでいなくてはダメよ。装着していた生命維持装置の稼働時間は、残り30分を切っていた。どれくらいあの場所にいたのかわからないけど、衰弱が激しいとドクターが言っていたわ」
「アンマンに着いたら、この船はどうなる」
「積載しているヘリウム3のタンクを降ろして、ドック入り。そうしたらようやく、乗組員は下船できる。まだ時間はたっぷりあるわ」
 彼女の膝の上で、猫は頭をなでられて気持ちよさそうに目を細めている。ジェリドがその顔を覗き込もうとすると、キッ、と目を見開いて膝から飛び降りた。
「俺のことが、気に食わないらしいな」
「匂いのせいよ。あなたからは、戦いの匂いがする」マウアーが言った。
「なぜ、あんなところに?」
 猫は再びマウアーの膝に乗ると、そこから肩に飛び乗り、ジェリドを見下ろした。ジェリドは首を振ると言った。
「敵に、嵌められた。船のエアロックから、突き落とされたんだ。殺したつもりだったんだろう」
「敵って?」と、マウアーがジェリドの目を覗き込む。
「敵って、誰のこと? 地球圏では、また戦争が始まったの?」
「チンケな海賊、テロリストの類だ」ジェリドはベッドに体を投げ出すと、両腕を上げて手のひらの上に頭をのせた。
「もう、終わったことさ」
 やがて、男は寝息を立て始めた。サウロは、この男をどうするつもりだろう。これから起こることを考えて、ふと彼女は助けたことを後悔している自分に気づいた。

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