「#呪いの言葉の解きかたゲーム」を明日に控えて

【企画概要】

「呪いの言葉の解きかたゲーム」第1回テストプレイ&ライブストリーミング

<実施日>
8月8日(土)20:30からYouTubeチャンネル「呪いの言葉の解きかたゲーム」にて配信
https://www.youtube.com/channel/UCeV2QoWpcNaJiksU2TkFSuw/featured

<企画・運営>
上西充子(コーディネーター担当):『呪いの言葉の解きかた』著者。国会パブリックビューイング代表。法政大学教授
飯田和敏(裏方担当):ゲーム作家。立命館大学教授。「京都で国会パブリックビューイング」メンバー

<参考文献・資料>
上西充子『呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)
#呪いの言葉の解き方」 

<参加者>(五十音順)
●あかたちかこ:思春期アドバイザー
●太田和彦:総合地球環境学研究所研究員
●坂上香:映画「プリズン・サークル」監督。『ライファーズ 罪に向きあう』著者
●皿倉のぼる:放送作家。「京都で国会パブリックビューイング」メンバー
●武市香織:元大学非常勤講師。上代文学専攻。「国会パブリックビューイング」メンバー
●西口想:『なぜオフィスでラブなのか』著者。労働団体職員
●納口龍司:イラストレーター

※詳細
https://docs.google.com/document/d/1XMpXvBFFzXcnkhVv8mex9PRljS52woC47SyqwEcUGYY/edit

【企画の立ち上げと準備】

 明日、上記の企画をzoomで実施し、YouTubeでライブ配信する。国会パブリックビューイングの活動で2018年に知り合った飯田和敏さんと私で共同企画したもので、構想が浮かんだのは1週間前の7月30日のことだ。9時54分の私のつぶやきから、飯田さんとの企画を立ち上げることが決まった10時34分までが40分。

提案

飯田さんリプライ

飯田さんリプライ2

飯田さんリプライ3

 そこから飯田さんとツイッターのDM(ダイレクト・メール)やメール、グーグル・ドライブで企画を練って、参加者に声をかけ、納口龍司さんにイラストを描いていただき、パワポでスライドを作成し、3回に分けてzoomで顔合わせとリハーサルを行って、企画を練り直し、専用チャンネルを立ち上げ、告知動画を公開して、そして今、明日の実施を待っている状態。

 構想から10日足らずで実施に至るこの展開の速さとワクワク感は、国会パブリックビューイングの最初の街頭上映を新橋SL広場で実施したときと似ている。2018年6月11日にある方のツイッターのつぶやきから、ふと国会審議映像の街頭上映というアイデアを思いついてつぶやいてみて、それがわずか4日後の6月15日に実現した経緯は、『呪いの言葉の解きかた』(晶文社、2019年)にも記したし、より詳しくは『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』(集英社クリエイティブ、2020年)にも記した。

 どちらも具体的な構想から実施までの日数は非常に短い。けれども問題意識や伏線や、実現に至る人間関係にはいろいろな経緯がある。関心のある方には上記の2冊を読んでいただきたい。

 さて、今日、このnoteを書こうと思い立ったのは、本日7日(金)の未明に飯田さんがツイッター投稿した下記の動画を、夜中に目覚めた私が目にして、とてもエンパワーされたからだ。

 何をどう、エンパワーされたかを、記しておきたいと思った。

<告知動画をめぐって>

 専用チャンネルができた昨日8月6日(木)に、私は飯田さんから下記のようにDMで提案を受け、下記のように返事をしている。

画像7

 「上西先生からの動画もいただければと思います」と提案をいただきながら、その提案には答えずに別の提案を私から返しているのは、気が進まなかったからだ。

 その後、同日6日の午後に、8日の参加予定者であるあかたちかこさんが自撮り動画を専用チャンネルに投稿してくれた。それを確認したあとで、私は飯田さんにこういうDMを送っている。

画像7


 自撮りの告知動画は「自意識的に」作れない、という私の断りの言葉を、飯田さんは深く追及せずに受け入れてくれた。そして、今朝の未明に、飯田さんは上記の「サイレント告知動画」を投稿したのだ。

 「こういう形なら、できますか?」という提案と共に投稿されたわけではない。飯田さんが、あかたさんとは違う形での告知動画を作って投稿してくれただけだ。けれど、それは私の「作れなくて(自意識的に)」に対する、飯田さんなりの丁寧なリプライのように見えて、私はそれに対して、何らかの形で応えたいという気持ちに突き動かされた。

 期待されても、動けない。肯定されると、自分から動きたいという気持ちになる。それは、『呪いの言葉の解きかた』の「灯火の言葉」の章に、具体的なエピソードを通して書いたことと同じ経験だった。

<「灯火の言葉」と「期待の言葉」>


 明日の「#呪いの言葉の解きかたゲーム」でも語ろうと思っているのだが、「灯火の言葉」(empowermentの言葉)と「期待の言葉」は違う。それは私にとっては、2017年に体感した「大発見」だった。人はつい、相手を評価するつもりで、その言葉の中に「期待」をまぜてしまう。けれどその「期待」は、「評価」として受け止めたとしても、「期待に応えなければ」というプレッシャーになったり、「断ることへの心理的な負担」になったりもするのだ。

 期待の要素を含まず、相手のおこないをただ肯定する「灯火の言葉」は、受け取った側に負担感を抱かせない。純粋に嬉しい気持ちになる。そして、肯定されたという気持ちは、自分の内部からの力(パワー)につながる。期待されてそれに応える場合以上に、自発的に積極的に動こうという気持ちになる。

 振り返ってみれば、7月30日に私の提案に対して飯田さんが反応してくれたときにも、そこには「期待」の要素はなかった。「一緒に企画しましょう!」のような「今後」に向けた反応ではなく、こういうのはとても興味深い取り組みだという「肯定的なフィードバック」だけをリプライとして返した言葉だった。

飯田さんリプライ

 そういう肯定的な反応に触れて、私は安心して飯田さんに対して、「zoomで一緒にやってみましょうか!?」と提案できたのだ。

 ここのデリケートなニュアンスは、この説明だけでは十分に伝わらないかもしれない。期待の言葉はいかなる場合も自制すべきだという話でもない(それは無理なことだ)。けれども、『呪いの言葉の解きかた』の「灯火の言葉」の章や、明日の「#呪いの言葉の解きかたゲーム」における実践ワークショップなどを通して、ニュアンスが伝わるとよいなと思っている。

 告知動画の話に戻ろう。私がなぜ、告知動画の作成依頼を引き受けられなかったか。私はそういうのが苦手なのだ。

 普通に写真を撮られるのも苦手だし、取材の際などに、カメラに向かって「笑顔で」とか「しゃべっている感じで」とか「仕事をしている感じで」とか要求されるのも苦手だ。集合写真で、みんなで「ピース」しましょう、とか「盛り上がっている感じで」とか言われても、やりたくない。誰かに向かって語っている様子を動画に撮影されるのは慣れたが、語る相手が目の前にいないカメラに向かって語るのも苦手だ。

 そういう苦手意識がある中で、「私はあかたさんみたいな自撮りの告知動画は作れなくて(自意識的に)」と書いたことに対して、飯田さんはそれ以上追及せずに、「はい、無理はせずに」と受け止めてくれた。そして、口頭で語らずに字幕で語る「サイレント告知動画」をみずから作成して投稿してくれた。そのことが、私のこだわりを肯定してくれたようで、嬉しかったのだ。

 「サイレント告知動画」を投稿した飯田さんのおこないは、「灯火の言葉」とは違う。それは私に向けられた「言葉」ではない。けれども、同じような意味を持っている。

 明日の「#呪いの言葉の解きかたゲーム」に向けたリハーサルの中で、参加予定者の納口龍司さんが、「灯火の言葉」は「言葉」じゃなきゃいけないのか、と問い、ある人に鰻屋さんに連れて行ってもらったエピソードを語られた。


 その人がその状況の中で、納口さんを鰻屋さんに連れて行ってくれた、その行為は、確かに「灯火の言葉」と同じ意味を持っていると、聞いていた私たちは受け止めた。たぶん、そのエピソードを、明日、納口さんはみずから語ってくれるだろう。

 そして、納口さんを鰻屋さんに連れて行ってくれた人と同じように、飯田さんは「サイレント告知動画」を投稿してくれたように私は思ったのだ。

 だからそのことを、ここに記しておきたいと思った。飯田さん、ありがとう。