「不断の努力」を世代を超えてつないでいくために (2021年11月3日 戦争させない、9条壊すな! 11・3兵庫憲法集会 スピーチ原稿)

 ※ 字幕つき映像 https://youtu.be/UNAOngKxwXY

 衆議院選挙が終わりました。自公に維新を加えれば334議席に達し、改憲勢力が3分の2の310議席を超える結果となりました。さらに、立憲民主党の枝野代表が昨日、辞任を表明されました。

 このような状況の中で、何をお話ししようか迷ったのですが、私からは憲法12条にかかわるお話をしたいと思います。

 憲法12条にはこうあります。

“この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。”

 注目したいのは、この条文の前半部分です。憲法が国民に保障している自由や権利は、憲法に書かれているだけでは、実現されません。その自由や権利を行使する者がいて初めて実現します。そして、その自由や権利は、常にそれを奪おうとする権力との緊張関係のなかにあり、国民が当事者としてその自由と権利を行使しつづけなければ、失われてしまいます。この条文が意味することは、そういうことだろうと理解しています。

 2015年9月15日の参議院における公聴会で、SEALDsの奥田愛基さんがこの憲法12条に言及しました。野党と幅広い市民の反対を押し切って、安保法制が参議院の特別委員会で強行採決された、その2日前のことです。奥田さんはこう語りました。

「私たちは、一人一人、個人として声を上げています。不断の努力なくして、この国の憲法や民主主義、それらが機能しないことを自覚しているからです。」

 彼らが国会前で、自分の名を名乗り、自分の言葉で語っていたことを思い出します。

 奥田さんはこの公聴会で、次のようにも語っています。

「2015年9月現在、今やデモなんてものは珍しいものではありません。路上に出た人々がこの社会の空気を変えていったのです。デモや至る所で行われた集会こそが不断の努力です。そうした行動の積み重ねが、基本的な人権の尊重、平和主義、国民主権といったこの国の憲法の理念を体現するものだと私は信じています。私は、私たち一人一人が思考し、何が正しいのかを判断し、声を上げることは間違っていないと確信しています。また、それこそが民主主義だと考えています」

 この安保法制に反対する市民の間から、「野党は共闘」の声が上がり、今回の衆議院選挙における市民と野党の共闘に、そして選挙区における候補者の一本化につながったと言われています。

 さて。では、皆さんにとって、今回の選挙はどのような経験であったでしょうか。

 関西圏はなかなか厳しい状況であったようですが、東京では25の選挙区のうち17の選挙区で立憲野党の統一候補が実現し、そのうち7つの選挙区で選挙区当選が実現しました。統一候補ではない場合や比例での当選を含めると、25の選挙区で13人の小選挙区の候補者の当選が実現しています。

 私は東京4区、8区、9区、12区、15区と5つの選挙区に出向きましたが、そのうち東京8区で吉田はるみさんが石原伸晃さんを破り、また、東京9区では山岸一生さんが、菅原一秀さんの後に立った自民党の候補者を破り、ともに選挙区当選を果たしました。どちらも若い新人候補でしたが、候補者が地域で地道な活動を継続してきたこと、そして、都議会議員や区議会議員とつながった市民団体が、立候補者をしっかりと支えたことが、この結果につながったようです。

 今回の選挙では、候補者の一本化で涙をのんだ方もおり、また、比例での立候補は選挙区における活動が制約されるため、得票が難しいという課題も残しました。一方で、応援する側としては、候補者が複数の場合とは異なり、遠慮なく応援できたことが、ありがたかったです。

 今回、私にとって印象的だったのは、政党の幹部が応援に来るような大規模な街頭演説会ではない、それぞれの選挙区の駅前などで開かれた小さな街頭演説会に、年齢も性別も様々な市民の皆さんが足をとめて候補者のスピーチに耳を傾けていたことです。市民の方々が当事者としてリレートークで語る場面もありました。

 選挙の際に候補者が一人で声を張り上げ、人々がその前を目をそらして通り過ぎてゆく、そんな光景ではなく、その演説の場に立ち止まり、そこで語られる政治課題を共有し、主権者として考え、候補者を議員へと押し上げていく、そういう場が、街中のあちこちに自然と展開されていたことが新鮮でした。

 選挙のたびに投票率が低いことが問題になります。今回の投票率は56%ほどでした。しかしながら、政治に関心を持たないほうが無難だと思わされている中で、また、テレビが選挙期間中の報道に消極的である中で、半数を超える有権者が投票に出向いているということは、なんとか踏みとどまっていると見るべきではないか、とも思います。その現状において、一人一人の有権者が投票することの意味を、改めて私たち自身が考えるべきではないかと思っています。

 冒頭の「不断の努力」の話に関連づけて言えば、「不断の努力」が連綿と続けられていくためには、自分が努力し続けるだけではなく、あたらしくその動きに加わる人が次々と生まれてくることが必要です。

 若手の候補者が新たに国会議員となって育っていくことと共に、若い市民の皆さんが、政治を自分ごととして感じ、選挙にかかわり、投票すること。そのことによって、日本の民主主義の流れに新しい要素が加わり、緩やかに新陳代謝が進み、活性化されていく。その、日々新しく更新され続ける流れが、「不断の努力」の連なりを生み出していくのだと思います。

 そう考えたときに大切なことは、遠回りに見えても、これまで政治に関わってこなかった人たちに、何か関心をもつきっかけを持ってもらうこと、そして、「自分たちが関わることによって政治は変わっていくのだ」という手応えを、もってもらうことではないでしょうか。

 政治に関心を持ち、強い危機感をもっておられる方々は、なんとかその危機感を共有してもらいたいと考えます。けれども、権力というものに対する警戒心を持っていない多くの人にとっては、強い危機感や強い批判は共有しにくいものです。そのため、耳を傾けてもらえないことになりがちです。すると、伝えようとする側は、相手の無関心に落胆してしまうこともあるかもしれません。

 けれども、「どうすれば伝わるのか」、ではなく、発想を変えて、「どうすれば相手が関心をもってくれるだろうか」、と考えてみてはどうでしょうか。

 私は2018年の6月に国会パブリックビューイングという取り組みを始めました。街頭にスクリーンを組み立て、国会審議の映像を解説つきで流し、街を歩く人に見てもらう取り組みです。働き方改革の国会審議の注目場面を紹介したのが最初で、その後、技能実習生の問題や統計不正の問題、桜を見る会なども取り上げました。新宿西口の地下では、多いときで80人ほどの人が、1時間を超える上映に足を止めてくれました。

 今はコロナの影響で実施していませんが、YouTubeの国会パブリックビューイングのチャンネルで、その様子をご覧いただけます。また、『国会をみよう』という本にも活動の内容をまとめています。

 私たちがこの国会パブリックビューイングの活動で意識したのは、「声をかけない洋服屋さん方式」です。お店で店員さんが、「何をお探しですか」と声をかけようと待ち構えているお店には、なかなか入りにくいという気持ちは、皆さんも理解していただけるでしょう。一方で、声をかけられないことがわかっていれば、安心してお店に入り、洋服を手に取ることができます。

 同じように私たちは、立ち止まって目を向けることへの障害となるものを、できるだけ取り除いてみることにしました。主張を示した横断幕やプラカードは、掲げないことにしました。他方で、上映内容は示し、委員会名や日時、質疑者と答弁者の名前はテロップで明示しました。スクリーンの横にできるだけスタッフが立たないようにし、立ち止まる人が抵抗なく映像に目を向けられるようにしました。解説は必要最小限にして、結論めいたものは、出さないようにしました。

 さらに、国会審議映像にはテレビのニュースのような編集は施さず、3分ほどの注目場面をそのまま切り出して見てもらうことにしました。

 そうすると、野党議員のまっとうな指摘に政府側が答える姿勢をもたず、どうでもいい説明を続けて時間をつぶしたり、論点をずらしてはぐらかしたりしていることが、見ている人に理解されてきます。

 ここで大切なのは、見ている人に自分で発見してもらうこと、自分で考えてもらうことです。「こうなんです!」と訴えかけると、「主張を押しつけられる」という警戒感を引き起こしてしまいます。逆に、自分で気づいたことは、自分の考えとして定着していきます。

 映像は受けとめ方が自由であるという利点もあります。「首相は下を向いて答弁書を棒読みしているばかりじゃないか」という点に目を向ける人もいれば、「こんな不誠実な答弁を平気で繰り返していたのか」と驚く人もいます。隠された論点に目を向けて、深く問題を理解してくれる人もいます。

 隠された論点とは、「ご飯論法」で言う「パン」にあたります。「朝ごはんは食べなかったんですか?」と問うと、「ご飯は食べておりません」と答える。これは、論点ずらしの答弁が国会で横行していることを知ってもらうために、ツイッターで用いた譬えですが、パンという言葉は、一切、口にしていない点がポイントです。「パンは食べたけど」とは決して言わないのです。

 言葉にされないことには、人は気づきにくいものです。けれども、「ご飯論法」という言葉が認知されたことによって、一見誠実そうな答弁が繰り返されている中で、政府が何を隠そうとしているのかに、注意が向けられやすくなりました。国会の議論がかみ合っていないのは、野党の追及が甘いからではなく、答弁側の姿勢に問題があることが、認識されやすくなったと考えています。

 国会のやりとりの内容に集中してもらうために、国会パブリックビューイングでは、音にもこだわりました。ストリートミュージシャンが使うような、キューブというアンプを使って、耳に負担がないようにしました。このアンプは、今回の衆議院選挙でも、多くの候補者に採用されています。

 このような国会パブリックビューイングの活動を紹介することによって、何を申し上げたいかというと、「発信する側の発想ではなく、相手の気持ちを想像してみよう」ということです。

 皆さんも、いきなり政治に関心を持つようになったわけではないと思います。子どもができて初めて、地域社会や行政の働きに目が向くようになったという人も多いのではないでしょうか。

 保育や教育といった問題からだんだんと、政治というものへの理解と関心が広がっていき、具体的な関わりも生まれていき、長い年月を経て、この社会に生きる大人としての責任を考えるようになった――そういう自分自身の経験を振り返ってみれば、新しく出会う人たちとは、ゆるやかな出会い方のほうが、可能性をもつことも想像できるのではないかと思います。

 今回の選挙では選択的夫婦別姓も大きな話題となりました。例えばそんな話題を、自分の経験も交えながら、若い人と語り合うことはできないでしょうか。憲法13条の幸福追求権(※)と照らし合わせてこの問題を考えてみることもできるでしょうし、女性が選挙権を獲得し、結婚・出産しても働き続ける権利を、闘いを通して獲得してきた、そんな歴史と絡めて語ることもできるでしょう。

※ すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 若い人達の新たな関心を、政治の変化へとつなげていくことができれば、自分が行動することの意味を、それぞれの人が感じやすくなるでしょう。

 憲法がどんなふうに、私たちの日々の暮らしと関わっているか。憲法を活かそうとすることが、どんなふうに、暮らしやすい社会の実現につながっているか、そういう実感を、そういう手応えを、一人一人が持てるようになること。そのことが、私たち自身の手で憲法を守り、生かしていこうという発想の広がりにつながっていくのではないかと考えます。

 政治の動きも予断を許しませんが、私たち自身が、地に足がついた思考と行動の力を強くしていくこと。そのことが、どのような状況にあっても大切であると、今は考えています。

 ともにがんばりましょう。