見出し画像

2022.8 良かった新譜

Chat Pile / DethTech / dynastic / ena mori / The Lounge Society / MJ Lenderman / Panic! at the Disco / Pool Kids / Uztama / さユり


Chat Pile - God's Country
(Album, 2022.7.29)

 "Death-grunge"を標榜するオクラホマシティの4人組による1st。個人的な話として、ちょうどこの作品がリリースされる直前の7月の中旬ごろ、Eyehategodの『Dopesick』を初めて聴き、スラッジメタルの旨味、「遅さ」が生む緊張感の味わい方のようなものの尻尾を掴みかけたところだった。そんなタイミングで聴いた本作は、自分のスラッジメタルへの興味を決定付ける一枚になったように思う。やけに硬質でマシーナリーなドラムサウンドの上にドロドロとしたリフが這いずり、ヒステリックな叫びが響くそのサウンドはかなり独特でジャンクな感触だが、不思議と耳馴染みが良い。そして、本人達も影響を公言しているKornとの共通性が、ニューメタルとスラッジや不協和音デスメタルとのミッシングリンク的な存在としての本作特有の奥行きを齎している(即ち、ニューメタルやメタルコアからヘヴィミュージックに足を踏み入れた自分のようなリスナーがスラッジメタルに辿り着くまでの道が、ちゃんと一つに繋がっていたことを示してくれている)。本作以前の話にはなるが、Portrayal of Guiltとのスプリットをリリースしているのも、面白い動きだと思う。


DethTech - slowdeth
(EP, 2022.2.5)

 イギリスのシンガーソングライターによるEP。エモ文脈(#4『ngmi』ではスクリームも飛び出したり)とサウンドクラウドのコミュニティが交わった、バンド的でありつつ孤独な佇まいが印象的。演奏は歪んだシンプルなコードストロークが主体で、そこに浮遊感のあるボーカルが乗ることで、期せずして(?)シューゲイザーっぽいフィールが醸し出されているのも面白い。エモ + ダウナーな歌唱という意味では、nothing,nowhere.も彷彿とさせたりするが、今日的なエモラップにありがちなポップパンクからの影響などはあまり感じさせず、ひたすら前髪重くあり続けることに美意識を見出してるところが良い。


dynastic - rare haunts, pt. i
(Album, 2022.7.29)

 サンフランシスコのプロデューサーによる、今年2月にリリースした『I know there's something left for you』(こちらも2月の記事で取り上げました)に続く2nd。快調なリリースペースですね。ポップパンク〜ポップロックに軸足を置いたハイパーポップ、というのが前作の印象だったけど、今作ではより前者の配分を強め、さらにスクリーモ〜ポスト・ハードコア〜マスコア(!)までも射程に含めている。が、ハイパーポップの意匠を完全に損なったわけではなく、むしろ「ロックを主体として要所にハイパーポップの要素を取り入れる」くらいのバランスをキープしたことによって、かなり示唆に富んだ内容になってると思う。特に、#3『lovely(fire away)』と#10『pining, revisted』は白眉! 前者はポスト・ハードコアとハイパーポップの最も幸福な交際と言えるような曲で、生演奏(っぽい音)と過剰な編集の融合によって生まれる化学反応の可能性をめちゃくちゃに拡げている。後者は、今や珍しくもなくなったアニメからのサンプリングをより効果的な感情表現として用いる方法を提示している(『夜は短し歩けよ乙女』を通して、星野源が激情ハードコア系統のポエトリーリーディングしてるみたいになってて面白い)。


ena mori - DON'T BLAME THE WILD ONE!
(Album, 2022.7.29)

 日本とフィリピンにルーツを持ち、現在はフィリピン・マニラを拠点に活動するシンガーソングライターによる1stフルレングス。先日サマソニでメインステージに出演したRina Sawayamaに近いバイブスを共有し、おもちゃ箱を覗き込んだようなキュートさと、時にそれこそスタジアムを沸かせ得るスケール感を併せ持つシンセポップ。#4『KING  OF THE NIGHT!』再生した瞬間からアンセミックすぎて素晴らしすぎる…。「岩壁音楽祭2022」にて日本初ライブ予定!


The Lounge Society - Tired of Liberty
(Album, 2022.8.26)

 イングランド・ウェストヨークシャーの4人組による1st。black midi、Fontaines D.C.、Squid、Wet Leg等を手掛けたDan Careyによるプロデュース。Gang of Fourを彷彿とさせるエッジの効いたギターサウンドが特徴的なポストパンク。瞬間的にスパークするような熱狂を生み出すリフのアイデアと、沸々と湧き上がるような興奮を作り上げる展開の構築力がどちらも高い水準で両立していてカッコいい。


MJ Lenderman - Boat Songs
(Album, 2022.4.29)

 Wednesdayのメンバーとしても活動するノースカロライナ州アシュビルのJake Lendermanによるソロ作品(3rd)。素朴ながらも非凡なメロディーセンスが遺憾なく発揮されるカントリースタイルでのソングライティングを下地にしつつ、作品全体に注入されたUSオルタナ成分との間に生まれる歪み(ひずみ/ゆがみ)が音世界に深みを持たせている。特に、#4『Toontown』、#5『SUV』の音像はけだるげなのに背筋が伸びる独特の感覚がある。


Panic! at the Disco - Viva Las Vengeance
(Album, 2022.8.19)

 Brendon Urieのソロバンドによる7th。プロダクションがカチカチに作り込まれてた前作に比べるとだいぶ素朴な仕上がりであるが、故に彼の優れた歌唱力と美しいコーラスワークが際立っている。また、素朴とはいえどもそれは音圧戦争に加担しないサウンド面の話であり、メロディーラインはドラマチックで、曲の構成も時にシアトリカル。そう言った意味で、Queenと比する声が上がるのも頷ける一枚。フレディ・マーキュリーとFall Out Boyがコラボアルバム出したらこんな感じだったかもね。ていうか、もうどっちもエモ要素全然ないけど、未だにP!ATDとFOBが共振しあってるの面白い。あれこれ言わずとも、ピュアに良い「歌」がいっぱい聴けて楽しいアルバム。


Pool Kids - Pool Kids
(Album, 2022.7.22)

 フロリダ州タラハシー出身の4人組による2nd。「エモ」というジャンルを横断的に捉え、トゥインクルでマス(math)な要素も含みながらも、自己言及的な内容に収まらず、オタク臭くない、というかむしろめちゃくちゃポップな、外を向いたアルバムとしてまとめているのはスゴい。ParamoreのHayley Williamsへのリスペクトを隠さないChristine Goodwyne(Vo/Gt)の表現力豊かな歌唱、#1『Conscious Uncoupling』に顕著なフックが効きまくった曲展開は、彼らがより広いシーンで爆発的に支持される未来を予感させる。


Uztama - 風が凪ぐ
(Album, 2022.8.19)

 日本のプロデューサー〜シンガーソングライターによる1st。オーガニックな雰囲気を纏うエレクトロ + ギターロックサウンドで、Porter Robinson『Nurture』やKabanagu『泳ぐ真似』に感化されたGalileo Galileiと形容したくなる一枚(KAIRUI『海の名前』と共振する場面も。つまり、この上ないほどに僕の好みに合致した作品ということです。ありがとうございます)。そしてそのサウンドは作品が描き出すノスタルジックな夏の風景と見事にマッチしている。ところで、「夏」というテーマ設定は素朴なように見えて、実は今日のアーティストにおいては大きな意味を持つ選択なのではないだろうか。というのも、みなさん、今年の夏って本作のジャケットのような「爽やかな」夏でしたか? 多湿で、酷暑の極端化が進む近年の日本の気候的に、「爽やかな夏」は既に存在すら疑わしい幻想的な季節という意味でそれ自体がノスタルジックなものであり、2022年の日本において爽やかな夏を描くいうことは内省的な制作に最適なモチーフの指定なのではないかと、本作を聴いて思う(一方、明日の叙景『アイランド』は日本の夏をサウンドで表現する際のコードを2022年に再定義した作品とも言えるのでは)。ライブも観たいしこれからの作品も楽しみです!


さユり - 酸欠少女
(Album, 2022.8.10)

 日本のシンガーソングライターによる、5年ぶりの2nd。さユりは個人的に本当に特別なアーティストなのだが、まとまったリリースが長年なかったこともありしっかりと語る機会がなかったので、やはり個人的な内容になることを断りつつ、本作以前のことも含め、彼女の何が「特別」なのかを文章にしておこうと思う。
 さユりを知った2017年5月、何気なく耳にした1st『ミカヅキの航海』に、一発で心を奪われた。当時大学4年生=バリバリの就活生だった僕が、それ以来いつも面接前に「ケーキを焼く」を聴き自身を奮い立たせていたほどに。...と、これだけでも十分エモい話だとは思うのだが、この時点ではさユりの表現の芯には全く迫れていなかったと思う。その時さユりに惹き付けられたのは(敢えてあまり気持ちの良くない言い回しを使うが)、ボカロ以降的なサウンド&「病み」感と、いわゆる「ギター女子」的な文脈を接続し、アニソン界隈にアクセスしたその独特な佇まいが、他でもなくボカロ・YUI・チャットモンチー・LiSAを聴きながら中高時代を過ごした自分のルーツに合致したためだった。
 印象がより立体的になったのは、初めて彼女のライブを赤坂BLITZで見た同年9月22日で、紗幕を用いた派手な映像演出をふんだんに取り入れたステージに衝撃を受けたと同時に、彼女の紡ぐ言葉とそのメッセージを最大化するための手段の選び方、さらにそこに透けて見える人間性に、強いシンパシーと、そして畏敬すら感じるようになった。
 さユりの何が凄いか。もちろん一言で言い尽くせるものではないのだが、メロディーセンスや声質などの表面的(もちろんそれも超良いところで超大事なところ)な魅力の他に、徹底的と言えるほどの表現への誠実さ、砕いていうと「嘘のつけなさ」があると思う。
 デビュー曲で、何かを欠いてもなお輝きを放とうとする自身を『ミカヅキ』と表現したさユりは、「月」というモチーフをその後の活動でも繰り返し反復させ、詞作に一貫性を持たせている。さユりが1stアルバム『ミカヅキの航海』で描いたのは、ほぼ一貫して「人・社会と関わるが故に感じる孤独」であり、その作品世界の中で、太陽や雲の存在によって満ち欠けを繰り返す月のモチーフはより強い説得力を帯びる。「関わりと孤独」というテーマは、冷房の効いた部屋からこそ色濃く感じる季節感(言うまでもなく、「世界と関わるからこそ色濃く感じる孤独」と対応している)を生活に近い言葉で綴った『夏』から、反出生主義をも匂わせる立場から生の意味を問う『birthday song』まで、両極端の幅広い粒度で語られるが、どちらも同じ人間から放たれている言葉であることを直感させるリアリティと等身大さを1枚の作品にパッケージさせているのは、表現と自己の同一化に徹するさユりの愚直さに他ならない(彼女の「嘘のつけなさ」は、RADWIMPS野田洋次郎からの提供曲『フラレガイガール』に描かれたフィクショナルな失恋にまで自作曲と同じ主題を託し内面化するまでに至っている)。
 そうして生まれた傑作『ミカヅキの航海』以降は、欠けたものを受け入れることで得られる強さを語った『月と花束』、人と関わり合うことで先へ進む決意を初のコラボレーション楽曲として歌った『レイメイ』(黎明=月が沈んだ後の明け方)といった楽曲を通し、自身の環境・心境の動きと共に「月」のモチーフを変形させることで、表現の主題とさユりの活動がリンクし続けた。
 人は音楽を好きになればなるほど、評価や位置付けを行うことを前提として作品に触れてしまうようになりがちだけど、こういった活動の中で生み出されたさユりの音楽は、1人の人間が作品に込めた想いを1人の人間として受け止める、ということの尊さを説いてくれたように思う。
 絶えず変化する人間の内面がそのまま音楽になるような、その刹那的で名状し難いパワーにほとんど心酔し、東京近郊のライブはもちろん同ツアーでも仙台や大阪までライブを観に行ったし、その度に楽曲の新たな意味を発見した(或いは、その度に楽曲に新たな意味が生まれていた)。しかし、思えばそのような創作の在り方が、時に彼女を追い込んだのかもしれない。約1年に渡りリリースが途絶えるなど、ややスローペースでの活動が続くこともあった。
 そしてようやく発表された5年振りのオリジナルフルアルバムが、本作『酸欠少女』である。ハッキリと言ってしまうと、作品として質が高いものとは正直言い難いところもある。アルバム初出の楽曲は2曲、その中でも#1『酸欠少女』はデビュー前から披露されている未音源化楽曲で、完全新曲は#4『DAWN  DANCE』のみということもあり、2018年の『月と花束』以降のシングル楽曲をまとめたコンピレーション的な感覚が強い。前述したような一貫したテーマや文脈を見出すのが難しい楽曲も少なくないし、サウンドプロダクションにも良くないバラツキが出てしまっていると思う(=アレンジャーの異なる冒頭3曲。#1『酸欠少女』のパキついたラウドロック的なサウンドと#2『花の塔』の軽やかなアンサンブルの高低差には、意図から外れた情緒不安定さを感じてしまう。バラツキがある曲を最初にまとめて出して、以降をじっくり聴かせるというねらいもあるだろうけれど)。
 そんな第一印象を抱いていたリリース直後の8月12日、さユりがInstagramに投稿したテキストは深く印象に残った。

 オリジナルアルバムのリリース時に自作を語るにあたっての文章にしては、やけに複雑な心情が綴られている。具体的な説明はないものの、自らの活動や作品、楽曲への葛藤が滲んでいる。しかし、そういった楽曲の存在自体が葛藤の記録であるとさユりが捉えることで楽曲の意味が生まれるのであれば、このアルバムは他でもないさユり自身のために生み出されたアルバムだと思うし、アルバムを締め括る#11『ねじこ』の「驚きや喪失のそのすべてを記録せよ」というフレーズは、さユり自身に向けて歌われているように聴こえる。やはりさユりは自分にも表現にも嘘をつけない人なんだということが、生々しく実感できるアルバムだし、だからこそ実質的なセルフタイトルを冠されている。そして、それを聴く我々もまた自分のために音楽を受け取ればいいのだと思う。
 また、本作においては、「月」に代わる「街 / 町」という重要なモチーフの登場も語られるべきだろう(『花の塔』『DAWN DANCE』『世界の秘密』『葵橋』など)。人の営みが積み重なった街 / 町の中に、「関わりと孤独」の先にある「人は孤独なままでも人と生きていける」「時代や場所を超えて孤独同士が繋がることが出来る」という事実を見出そうとしているように感じる。その解釈の答え合わせや補足は、これから先の彼女の活動、とりわけ様々な街を回るライブにおいて為されることだろう。
 「やっとちゃんと次に進めそう」というさユりが次に向かう場所を見据える眼差しは、やはり今も鋭くて真っ直ぐなままだと、そう思わされるアルバムだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?