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やたらカーブの道が多いバスの中で

spiral chordを聴いて通勤していたとき、眉毛と目が近付いていた。
「大丈夫?」とよく聞かれた。大丈夫、と聞かれたら大丈夫と答えるようにできてんだよ、と思いながら、「大丈夫です」と言った。

何かに対して「嫌じゃないか」とよく確認されていた。嫌そうな顔をしていたんだろう。
そういうときはうたうように口から出る文句として「嫌だと思ったことはない」なんて嘘をついていた。
なにそれ。うるせえな。そんなわけないだろうが。

キース・ヘリング柄は今は見なくなったが、ザ・ノース・フェイスやマンハッタン・ポーテージのリュックサックを背負った高校生が目の前を歩いている。
同じ制服を着た友達らしき子に対して朗らかに笑いかけていた。
私はそんなふうに笑えるようになるまでおよそ20年はかかったっていうのに、どこで手に入れたの?

眩しいな。

あのときの眩しさはもう、なんでもいい。
さすがにあのままの美しさは手に入らなくても、友人と議論を交わし合う時間はそうだ。

あの高校生は、たとえば、エレベーターの開ボタンを押し続けてくれる誰かに会釈をしたり、落とした手袋を拾ったり、更には「落としてますよ」と追いかけて渡せたり、そういうことが反射的にできる人だった。
私もそうなろうと思った。

そうして、何かしらの客側に立ったときに「お待たせしてすみません」の定型文には「とんでもないです」と返せるくらいにはなった。
謝意を丁寧に述べられる、客観的に見てもだいぶ好ましい姿になれたことに安堵する。
これは買い物をするときにほとんど急いでいないからというのもあるが。

ただ、住宅街にて道に迷っていたとき、恐らく近隣にお住まいであろう女性から「何かお探しでいらして?」と声を掛けていただいたときばかりは、自分には圧倒的に品が足りていない!と衝撃を受けた。
今後言えるだろうか。言えたらいいけど。
とんでもない、までは息をするように言えたからそのうち言えるようになるだろう。


話は逸れたが、そう、そういうのを、やっている。
すぐ悪態をつく代わりにでもなればと。でも、それって下心だ。
まあ、でも、見てるか?よくやっているだろう。
自家中毒としか言えないくらいにはしょうもない思春期を過ごしていた私も、挨拶くらいはできるようにまでみんなが育ててくれた。
手がかかったと、自分でも思う。


あの日に見た高校生は眩しかった。
一瞥した後にFoalsを聴いて、繰り返されるフレーズで眠りに就いた。
その日、偏頭痛で倒れて救急車に乗った。




以下、読み返すとあまりにもおもしろくなさすぎて「どうしてこんなことを書いてるんだ」と思ったが、せっかく書いたので記す。

新卒。
「前にも言ったよね?」と言われる度にいちいち腹を立てる程度には沸点が低かったので、同じことを聞き返したくなかった。
物分かりがいいわけじゃない。そういう輩を信用していなかっただけ。
社会に出てからいろいろなシステムやマニュアルの中に組み込まれてしまった。
「前にも言ったよね?」「なんでわからないの?」
今だったら、そんなことばかりのたまう輩のことはどう考えても殴ってやりたい。わかるように説明している自信があるか?
そう、あるんだよな。あるからそんなことを言うんだよ。

トライアンドエラー。
失敗してはいけないとばかり思い、何もしないことによる成功体験を得てしまう。

「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」
山本五十六の言葉

わかるまで聞いていいし、実践した後に失敗しても「次いこ!次!」と言ってもらえたらありがたい。
しかし、わかるまで聞くことは前述で言うところの「なんでわからないの?」に繋がり、それにまた腹を立てる無為な消耗をするので、そのループを断つのには苦戦した。
転職したらほぼ解決した。

わからないことをわからないままでいる、は誰にとっても不利益である。
内容はなんでもいい。理解に通ずる声かけができる人間がいることは組織の強みだと思った。

問題をそのまま放置し続けることおよびその風土。
これが「何もしないことによる成功体験」だ。
知らないままでいる、そして我関せず、の姿勢を保ち続けると、面倒事に巻き込まれにくい。
また「あの人は失敗しないね」というどこに目がついているのかわからない人間が、成功と失敗のパーセンテージだけを見て判断する。
総数なんか見ちゃいねえのだ。
とにかくその場だけを凌げればいいのだから。


その場だけを凌げればいい、という人間はとにかく脳のメモリを割かない。
今回文章化してわかった思いがひとつ、

なめやがって。

そういう輩のことを「そういう人だから」と甘えさせてきた周りも、もちろん当人も許さねえ。

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