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カズオ・イシグロの世界④愛のかなしさ。

カズオ・イシグロは『わたしたちが孤児だったころ』の後、2005年に『わたしを離さないで』、2009年に短編集『夜想曲集』、2015年に『忘れられた巨人』と長編小説は五年から十年の期間をかけて書き上げて発表している。

『わたしを離さないで』は過去のある時代(1950年代から1970年代とされている)に、クローン人間が臓器提供のために作られ、社会から隔離されて共同生活をおくり、ある年齢になると臓器提供のために施設に移され、命がある間、何度か臓器提供をして死んでいくという現実味のあるフィクションである。

語り手のキャシーは、ヘールシャムという特別な施設で育てられ、介護人として臓器提供する仲間の世話をして12年過ごし、半年後には自分も提供者になるということから語り始める。自分たちが他の人たちとどのように違うか知っていく過程、恋とセックスの様子、自分たちがクローン人間と知った後には誰のクローンか知りたいという思い、愛し合うカップルはしばらく一緒に普通の生活、つまり臓器提供を行わないで男女の生活を楽しむことが特別に許されるのではないかという期待と失望、恋人が最後の提供を終え死にゆく時のかなしみを語る。

作者カズオ・イシグロはこう語っているーーーーへールシャムはかなり特殊な場所で・・・そこで子供たちは、我々が言うところの最高の教育を受けて育てられます。しかも、特定の理由があっての教育です。彼らは自分の運命を知らない上に、自分がクローンであることが何を意味するのかもよくわかっていません。・・・私はこの世界を子供時代のメタファーにしたかったのです。・・・私が昔から興味をそそられるのは、人間が自分たちに与えられた運命をどれほど受け入れてしまうか、ということです。・・・自分の仕事、地位を人は受け入れているのです。そこから脱出しようとしません。実際のところ、自分たちの小さな仕事をうまくやり遂げたり、小さな役割を非常にうまく果たしたりすることで、尊厳を得ようとします。時にはこれはとても悲しく、悲劇的になることがあります。・・・我々の体がいずれは動かなくなるという事実から逃げることはできません。・・・どういうわけか、愛は、死を相殺できるほど強力な力になります。愛があるからと言って、永遠に生きることはできませんが、どういうわけか、愛があると、死がどうでもよくなるのです。ーーーー作者の意図がよく語られているのではないだろうか。

この『わたしを離さないで』のかなしみに色付けられた愛に対して、『夜想曲集』のなかの愛は、どれもが危うい。妻との別れのためにゴンドラで歌う『老歌手』、友人が夫婦の冷たい状態から抜け出すために引き立て役として招待される47歳になっても安給料で外国で英語教師をしている男が聴く『降っても晴れても』、売れないサックス奏者が別れた奥さんの新しい夫からの金で整形手術を受け、隣室の女性歌手と一時的に親しい時間を過ごす『夜想曲』、ミュージシャン志望の若者が出会った、心がすれ違うスイス人夫婦のデュオ歌手と出会う『モールパンヒルズ』、才能があるために子どもの頃から先生につけず、チェロを演奏するのをやめた女性からチェロを教わる青年、そして音楽を理解しない女性の婚約者と女性のすれ違いが予想される『チェリスト』。どれもユーモア、あるいはかなしさに色付けられた男女の心のすれ違いを描いている。『降っても晴れても』と『夜想曲』の笑いはカズオ・イシグロにはこういうユーモアがあるのかと安堵させる。何しろ霧のような湿ったかなしさが彼の作品のほとんどを覆っているのだから。

愛があると死がどうでもよくなる、カズオ・イシグロがインタビューで語ったこの言葉は、はかなさを表すのか、それとも愛の不思議さを語っているのか、それとも、不確かな愛に人生を託す人間の哀れな姿を示しているのか、それはどれとでもとれるような曖昧さをもって感じられる。彼が描く愛はすべて、それらの感覚を混ぜ合わせたように灰色に思える。良い悪いの判断をしているのでなく、作者はその事実を書いているように思う。

そして、かなしさとさびしさに深く染まった男女の愛を描いたのが『忘れられた巨人』である。

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