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村上春樹についてー『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 村上春樹、文藝春秋。

読み終わって、予想していた小説だったというのが正直な感想だ。

村上春樹氏の小説はほとんど読んだ。そして、彼の作品の特徴として次のことを感じていた。これは、『海辺のカフカ』以前の作品についてである。

彼の作品では、その時代、主人公や小説ないの人物像、そしてその心象を描く時、できるだけ、その最も目立つところから描いていく。でこぼこした小説の中の世界、その環境、出来事、人物、すべてを、でこぼこしたクッションを手でなぞり、触れるところについて書いていきつつ、読み手にその窪んだところを想像させる。作品が進むに連れて、手は圧力を増し加え、徐々に窪んだところに触れ、それまで隠れていたところを描くが、最後の真暗な底は描かず、読み手に想像させる。これが『海辺のカフカ』以前の作品の一貫した書き方だと思う。

例えば『アフターダーク』では、鏡の向こうの世界、テレビの向こうの世界が存在し、行き来できるだけでなく、もうひとりの自分を見ることができる。
その状況が真暗な底である。また、『ねじまき鳥クノニクル』の井戸の中は別世界への出入り口であり、そのむこうの世界は確かに存在するが、真暗な闇であり、主人公はその闇と戦わなくてはならない。『ねじまき鳥クロニクル』では、第二次世界大戦中のモンゴルや現代の欲望で生きるもう一つの世界へつながり、その戦いの意味は説明されない。『アンダーグラウンド』やその他の作品でもその書き方は変わらないと思う。『風の歌を聴け』以来変わっていない。

彼の作品は、考えることを読み手に要求するのでなく、読み手にいろいろな印象を与え、ほとんど現実のような虚構の世界の楽しみを提供してきた。絵画でいえば、印象派であり、表現主義、モネでありムンクであると言ってよいかもしれない。

『アフターダーク』では、マリは暴力の世界から、眠り続ける姉エリのもとに戻って終わる。

『海辺のカフカ』でも主人公は闇の世界へ行って戻ってくる。『1Q84』では、月が二つある、恋人と出会えないまま理解できない戦いを続けなければいけない世界がそうだった。向こうの世界では、死、虐待があり、そして主人公のふたりは傷をうけるが戻ってくる。

しかし、戻り方が『海辺のカフカ』から変化している。『海辺のカフカ』では、「やがて君は眠る。そして目覚めたとき、君は新しい世界の一部になっている。」と、新しい世界が始まることが示唆されている。また、『1Q84』では、「・・・(略)・・・青豆は月を眺めながら下腹部にそっと手をやり、そこに小さなものが宿っていることをもう一度確かめる。・・・(略)・・・彼女は空中にそっと手を差し出す。天吾がその手をとる。・・・(略)・・・」

このように明確なハッピーエンドを書いたのは『海辺のカフカ』からだろう。


二作とも、各節ごとの描写は、以前からの喩えや感性のこまかさを見せながら、小説のストーリーの進行は、全く違うところでスピードを調整している感じがする。そこに、「私は、別の世界を読者に感じさせるために書くのではない。どう生きるか伝えるために書く」といった作者の新しい意思を感じた。
スペインでの授賞式での演説で「作家は何か希望になることをしなければいけない」と語った。『海辺のカフカ』から、『1Q84』へかけて村上春樹が変化してきた彼の内面を言葉にすると、そのようになったのだろうと思う。それまで、感性が受け止める心の風景を描いてきた作者が、男と女が一緒にいることで何も欠けていない完全な世界を手にできる、と「言いたい」と思って書いたように思う。『1Q84』の主人公の青豆と天吾の、これから何に出会おうとそれを受け入れ、いっしょに生きていこうという思いが、恋愛小説のようであろうと、物語として平板な終わり方であろうと、今の村上春樹のこの世界への姿勢だろうと思った。

そして、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。


ストーリーは簡単である。高校時代に仲の良いグループ、男三名、女二名におきた、大人としての性的な関係を考えた関係になっていく時の亀裂や思いのずれ、そして一人の女性シロに起きる精神的な病と殺人という不幸である。主人公の他の四名は、アカ、アオ、クロ、シロと色と関連した名前で、主人公だけが違う。そして、ある日、四名から絶交を告げられる。そして、約20年後、その理由を確認するために、全員を訪ねる。シロと呼ばれる女性が、主人公つくるに強姦されたと告げたからであることがわかるが、それは嘘であるとみんなどこかでわかっていた。同時に、主人公にはクロ、シロふたりの女性への性的欲望がありセックスしている夢をみていた。全員に会いに行くことを強くすすめた恋人沙羅に結婚を申し込んで終わるが、ハッピーエンドを想わせる。最後に主人公が自分に語る言葉「僕らはあのころ何かを強く信じていたし、なにかを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」が、それをはっきりと示している。

わたしは、作者は、いつもゆっくりと均等に押していくスポンジを急いで、ぎゅーっと押して一気に搾ってしまった感じがする。そのために、グレイである灰田との関係、灰田の父親が聴いたという死をバトンタッチする「死のトークン」、さらに六本指の話が、どこかに消えてしまったかのように小説での意味を失っている。いつもの村上春樹氏の作品なら、灰田との関係にもうひとつの闇、「死のトークン」でもうひとつ、六本指でもうひとつ、読み手を引きつける物語を作り、それをパズルのように組み合わせただろう。

また、そのスポンジの押し方がいつもよりも強く、一気におしているので、いつもの描写しつつ本質を表現する書き方でなく、登場人物の会話や描写で最後の言葉に達しているために、以前のような描写の楽しみは少なくなっているように思う。

アオはこう言う。「・・・あんな生き生きとした時代を一緒に過ごし、一緒に成長してきたのにな」
アカはこう言う。「おれはおまえに対してずいぶんひどいことをしたと、ずっと思っていた。それは本当だよ。・・・」
エリ(クロ)はこう言う。「・・・私たちが私たちであったことは決して無駄ではなかったんだよ。・・・」

これらの過去の自分たちの友人関係についての肯定的な言葉を聴いて回るのが、「つくるの巡礼」である。

内容的には、灰田の話し、「死のトークン」、六本指の話し、アオ、アカ、クロの人生でそれぞれひとつのサブストーリーを作り、もっと楽しませてほしかった。楽しみを読み手にあたえることを削ってでも作者がどうしても作品に求めたこと、それは、スペインで作者が語った「作家は何か希望になることをしなければいけない。」この信念ではないだろうか。この言葉が今回の作品の根底にある気がする。


(2013.04.23)
五年前に書いた村上春樹論を読み直しながら、訂正すべきは訂正しようと思った。整理しようとおもったのである。五年前は、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』からスタートしているので、そのままの順序で変えないことにした。

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