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カズオ・イシグロの世界③個と外の世界の境界の消滅。


前回取り上げた『日の名残り』では主人公スティーブンスは限られた狭い世界に関わることを誇りにし、歳をとってからそれはそれで良かったのだと自分に言い聞かせた。

『わたしたちが孤児だったころ』では、主人公クリストファー・バンクスは10歳で孤児になる。戦前の上海の租界に住んでいたが、貿易会社勤めの父親とイギリスのアヘン貿易に反対運動をしていた母親が相次いで行方不明になる。クリストファーはイギリスに戻り、学校を卒業すると探偵になる。父親はイギリス政府とアヘン貿易を行っていた会社によってトラブルに巻き込まれ、母親はそのアヘン貿易反対活動のために政治的あるいは経済界の力でどこかに拘束されているに違いないと信じているからだ。探偵になったのは自分で両親を探し出すのが目的である。

日本軍と中国軍の戦闘が激しくなっている上海に戻り、両親と子どものころの遊び友達だった日本人のアキラをさがす。既に二十数年経っており、上海の租界の周りも戦闘で廃墟になりつつある時である。

上海を一緒に抜け出しマカオに行こうと言う彼も好意を持っている女性に彼はこう答える。ーーーー「問題はぼくのここでの仕事のことです。ここでまず、それを終えなければならないのです。なんといっても、全世界が破滅するかどうかの瀬戸際にあるわけですから。」租界にいるヨーロッパ人たちが何もなすべきことも見つけることができず、目の前の戦闘の砲撃の音を聞きながら為すすべがないまま、危機的な状況を忘れるために酒を飲みごまかしている時である。サラは「ーーそういう考え方を捨てなきゃいけないわ。そうじゃないと、二人とも何もできなくなってしまう。わたしたちがここ何年もそうだったみたいに。ただこれからも寂しさだけが続くのよ。何かはしらないけれど、まだ成しとげていない、まだだめだと言われつづけるばかりで、それ以外人生には何もない、そんな日々がまだ続くだけよーー」

マカオへの船に向かうタクシーを待っている時、クリストファーは両親が誘拐され連れていかれたと思われる家が近いことを知り、サラが目を離した時に、その家をタクシーで探しに行く。そこは砲弾で廃墟になり、いたるところに死体が転がり中国人の難民が僅かに壁と屋根が残った家に隠れている戦場である。

クリストファーがアキラと思う怪我した日本兵を助けながら、彼は両親がいると考えられる家を探して戦場を彷徨う。既に二十数年経っているのだから、あり得ないと考えるのが常識的な考えだ。しかし、クリストファーは両親を探すことに命をかける。最後に彼は、両親は彼が想像していたように理由で行方不明になったのではなく、父親は女性と失踪し、母親は軍閥の性の奴隷になったことを知る。

二十年後、イギリスでクリストファーはこう考える。ーーわたしたちのような者にとっては、消えてしまった両親の影を何年も追いかけている孤児のように世界に立ち向かうのが運命なのだ。最後まで使命を遂行しようとしながら、最善をつくすより他ないのだ。そうするまで、わたしたちには心の平安は許されないのだからーー

この小説はイギリスで大学を卒業した後ロンドンで子どもの頃の上海での生活を思い出すところから始まる。約その三十年後、またロンドンで日中戦争時の上海、戦後十三年後に再度訪ねた時の上海を思い出すところで終わっている。

多分32歳の時発表した『日の名残り』の時の作者の人生感を、46歳の時に発表した『わたしたちが孤児だったころ』ではまだ作品に同じように見つけることができる。レナードコーエンがすきで、作曲しフォークシンガーを目指していた彼が、小説家を目指した意気込みのように。

ほとんど無駄とわかる、二十数年前に行方不明になった両親を戦場で探しまわることは、無駄でも努力しなければならないことなのだ。作者カズオ・イシグロはそれを明確には語らないが、それしか孤独な個である人間が世界と関わる方法はないと考えていると思われる。

『わたしたちが孤児だったころ』の五年前に発表した『充たされざる者』はそのことを別なかたちで表しているように思う。作者が41歳の時の作品である。

世界的に有名なピアニストであるライダーは、ヨーロッパの都市の祭りで演奏するように依頼され、指定されたホテルに到着する。そこから、彼と外の世界は、必ず微妙にずれ、同時に彼とその都市のひとびととは時間的にか人間関係で重なり、ライダーはライダーでありながら、彼がその時まで考えたこともない人間として扱われ、彼もそれをうけいれる。突然、ホテルのポーターの娘がライダーの妻であり、ポーターの孫は彼の息子であり、彼はポーターの悩みが理解でき、その助けになろうとする。コンサートを仕切るホテルの支配人とその妻、過去にこの都市で尊敬されていたが今はみんなから軽蔑されている指揮者とその別れた恋人、チェリストとして尊敬されリーダーとしてふるまっていたが今は馬鹿にされている男、誰もが世界的に有名なピアニストであるライダーに敬意を払いつつ、無理難題を依頼してくる。しかも突然妻の振る舞いをするようになった女性が持ちこむ願いはライダーを振りまわす。

そして誰もがコミュニケーションに問題をもち、まわりに不満を持ち、それが解決されることを望んでいる。しかし、何も解決されず、互いをそのままうけいれるというには冷たい姿勢で放置することと変わらないのだが。放っておけないライダーは駆けずりまわり、疲れ果て、虚しくなる。しかし、ライダーの両親が過去にこの都市を旅行で訪れ楽しい時を過ごしたという話を聞いて、ライダーはそれを信じ喜ぶのである。

妻であるはずの女性は、「あなたはいつだって、あたしたちの愛情の外にいたーー」と言って去る。ライダーは、電車で語りかけてきた男の言葉、「いつも最悪に思えるのは、それが起きているときさ。だが過ぎ去ってみれば、何であれ思っていたほど悪くはないものだ。元気を出しなさい。」に慰められ、楽しみを期待するのである。

これはカズオ・イシグロが言うように、ブラックユーモアかもしれない。決して充たされることのない望み、それをひとは持つという。同時に、かなしさを含んだ期待はこれまでの彼の作品のほとんどに見られるものである。彼の感性の特徴かもしれない。

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