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荒川洋治論③ー彼の言葉の振り子①ー

2012-12-19 20:00:13
テーマ:評論・詩・荒川洋治
前回、「荒川洋治論②-彼の修辞とは何か?②-」で、下のように書いた。

荒川洋治氏にとって、暗喩は方法であった。作品に読者を引き込むための、あるいは、詩の世界へ人々を引き込むための意識的な方法であったと思う。詩に必要なのは「技術」であると言いきった(これにも彼一流の意識した考えがあると思うが)荒川洋治氏は、暗喩の世界に入り込まずに、語り手として距離を置きつつ、作品を心地よいものに仕上げる事を第一の目標にした。それが『娼婦論』『水駅』である。ある意味では、彼の詩の世界への登場の仕方を彼は自身で演出したのだろうと思う。

それが演出であるので「修辞的な」究極を目指す作品に思えたし、それまで、同じような暗喩を使っていた詩人たちが立ちえない視点、作品の外で読者と同じ視点で作品を視る、書くことが可能になったのだろうと思う。
荒川洋治氏は、詩の世界の外に立つ暗喩の使い方で詩を新しい衣装にした。

ここに私が書いている内容は、『水駅』は、荒川洋治氏が、多くの現代詩人から、「美しい喩だが、言葉を軽く使っている、言葉の意味を薄めている」と非難を受けるのを予定して、あるいはわかっていて発表したと考えているということだ。もちろん、私の想像である。ただ、そのような非難を受けるのをあらかじめ覚悟していたと思う。

もし、詩の世界がひとつの円で描かれ、その中心に、それまでのシュールレアリスト・シンボリスト・生活詩人全てが居るとしたら、彼は、それに対してNOを言いたかったのだろうと思う。

その中心にあるのは、下のことで定義される詩の世界である。
①詩は、真面目である。
②詩の作者と語り手は同じ視点、感性をもつ。
③詩の言葉には知性が感じられるべきである。
④詩の言葉はメッセージをもっているべきである。
⑤詩の作者は何か言いたいことをもっている。
⑥詩の作者は作品を肉感的に感じるものにしたい。

①から⑤は、表だってほとんどの詩人が納得してくれるが、⑥は否定する詩人もいるかも知れない。しかし、わたしは、ほとんどの詩人がどこかにその欲望を持っていると感じる。人間が、普通の状態で書く、読む行為をなす時、人間の知性、感性だけでなく、肉体がもっている感性も働いていることを感じる。「普通の状態」と書いたのは、「普通でない状態」があることもあるからである。

前回こう書いた・・・・・『水駅』の書き方の中で、それまでの詩人たちが、詩の世界に入りこむことで手にしていた特別なものを失ったともいえる。失うというのが言い過ぎならば、希薄になったものがあるだろうと思う。それが、魂の満足である。魂でなければ、人間の肉体を含めた存在といっても良い。詩人の魂は、言葉の世界と一体化することを欲望する。詩がどんなに個人的な世界になり、普遍性を失ったり、美しさを失っても、その要望を充たしたいという欲望が詩人には基本的にあると思う。詩とセックスして、詩を自分個人のものにしたいという要望である。その埋め合わせとして書かれた作品、語り手「私」が詩の世界に入らないとアンバランスになる作者の感性の虚構と現実のバランスを取るための作品が、荒川洋治氏では、『倫理社会は夢の色』だと思う。『水駅』以来のずれていたバランスを取り戻すために、逆に振れたのが『倫理社会は夢の色』の頃の作品だと思う。その前の『遣唐』は、そのバランス移動の過程の作品だろう。

以前は(荒川洋治氏が出てくるまでは)、当たり前に、みんながバランスをとっていた。①から必ず⑤までをもち、詩の立ち位置は言葉の円の中心するようにしていた。⑥については、時々詩の一行で、あるいは詩集の中の一篇に背負わして、バランスをとっていた。

ところが、荒川洋治氏はその振り子のバランスを、「喩はそのまま言葉の美しさで良い。そして、それが詩の中心に来ても良い」と、振り子を大きく持ちあげて、揺らした。

①②③④は、30年前、わたしも失っていた。しかし、⑤と⑥はまだある。今回、思潮社、現代詩文庫75と103を読んで、彼がしたいのは、詩の中心にNOといい、言葉の丸い円周を辿ることではないか、と思った。そして、①から⑥すべてをなくすことを目指しているのではないかと思えて来た。

『水駅』で①③の三次元の座標はまだプラスだった。②については、前回の「荒川洋治論②」(http://ameblo.jp/pololitomono/entry-11425821935.html )で書いたので、そちらを読んでほしい。多くの詩人にとっては、②の書き手と語り手の分離はなかなか大変である。彼の詩ははスタートにそれを分離していたのである。

①と③は、荒川洋治氏は最初から不要だったのではないだろうか。瀬尾育生氏は、外からの攻撃に、同じ言葉で返答する、つまり「真面目さがかけているではないか!!」と言われると「真面目さ、それが詩にひつようなのか?!」と、外への反発が荒川洋治氏の成長、あるいは変異の仕方だと書いていらっしゃるが、私は、そうは思わない。私は、荒川洋治氏の書くと云う情熱の中に、最初から、これらを捨てる意志が、あるいはその種があったと思う。私の勘違いになるかも知れないが、言葉は、外からの刺激に反応して出てくることもあるが、それを作品に書くと云う意志は、内側からでないとなかなか続かない。

荒川洋治氏が、プロレタリア文学について詩を書いているが、プロレタリア文学が、外からの刺激(弾圧)に対して書かれることはあったが、それは熱がさめると書き手にとって幸せでないものになる。書き手は、「書く」ことで幸せを感じたいと私は思う。ソルジェニーツィンの作品を支えたのは、彼の反骨心ではなく、彼の言葉のなぐさめであると思う。

荒川洋治氏は、多分、そうでないと詩の世界が評価しないので、スタートのショーアップとして、①と③を残したと私は思っている。そうでないと、現代詩の社会が受け入れてくれないとしっていたからだろう。『水駅』で受け入れられると、荒川洋治氏は、『水駅』の後①②③④はほとんどゼロにした。そして、今、次のステップとして⑤⑥もゼロにすることを目指しているのではなかろうか。これは私の想像するところである。

Ⅰ.『水駅』の位置づけ-振り子のスタート-

すると、『水駅』は、目的地として描かれた作品集ではなく、スタートとして書かれたことになる。何のスタート?言葉の歴史性や時間とともに染みこんだ意味を洗い流すためのスタートではないだろうか。

「しろい批評がある」(『ソフィア補塡』)

「風は風を超え
ひとは類をのみほし」(『タシュケント昂情』)

「国境、この美しいことばにみとれて、いつも双つの国はうまれた。・・・」
(『水駅』)

「世代の興奮は去った。ランベルト正積方位図法のなかでわたしは興奮する。」(『楽章』)

「いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。」(『見附のみどりに』)

これらの喩のための喩に思える詩句は、地図を観ながら、彼は意識して、その言葉にまつわる熱や冷たさ、人の感性を、献血で地を抜くように抜いて書いたのではないか、と思っている。

下は、詩が言葉の意味、メッセージ性と美学性にどの程度頼るかを断面で示したと考えてほしい。円では書けないので、その断面だと思ってほしい。そして、私は、荒川洋治氏は、AからCへ円の円周を回るように歩み、まだ、その円周上を歩んでいると思う。何のために?その中心にある「詩」に、「きみはひとりよがりの言葉だ」というために。これは私の想像である。

A.詩のメッセージ性は少ない。美的感覚はある。ただし、詩人の肉感は不満足である。
↓ (『水駅』から『醜仮盧』まで)


B.メッセージ性、美的感覚もある程度ある。
↓ (多くの詩、そして偶然『遣唐』)


C.メッセージ性、美的感覚を壊す。ただし、詩人の肉感は満足する。
(『針原』から『ヒロイン』まで)

この詩人の肉感とは、詩とセックスして、詩を自分個人のものにしたいと要望である。あるいは、作品が異性のように感じられる満足である。

AからCへ移動してくる間に、『遣唐』は偶然か、意図的にか、荒川洋治風の書き手と語り手のバランスを取りながら、書き手の詩とできるだけ近くいたい、できたら、人間の異性とのセックスのように感じたいと云う欲望をみたしてくれたのではないだろうか、と思う。AからCへ回っていく時、横から見ると、中間で、円の中心と重なるように。そして、そのことは荒川洋治氏にとっても計画外だったように思う。

まず、『遣唐』の詩の最後の何行かにその満足が表れているように思うので、みてみよう。

「存置せよ/いっさいを存置せよ/と叫ぶはるかな父に向けて/私は/毎朝/首もあらう」『存置』

「大きな人間になってください/釘を笛のようにくわえて係官は/森を見ない私に/云った」『旅愁』

「やや後ろには/音楽にあわせて/やがて見失う/ヒトの山が/あった」『ほたるのひかり』

これらの詩句は、その前に書かれた修辞、この最後の言葉を導くための言葉・・・ある意味、飾りの言葉・・・の後を受けて、詩をまとめている。この最後にまとめる、起承転結の結の重要性については、詩人本人『おかのうえの波』(続・荒川洋治詩集、思潮社)に書いているので読んで欲しい。

無意識なのか、意図的なのか。多分、AからCへ書き手の心を円周にそって移動してくる時、偶然通った通過点だろう。そして、作者は、自分が何処を通過しているか良くわかっていたし、満足したと私は想像する。そして、『遣唐』の作品は、多分、荒川洋治本人にとっては最も不快なものとなり、多くの読者にとって荒川洋治の世界に入り易い詩集となった。多分、詩人の意図しないところでのこと、ある意味ではミスだったのではないだろうか。

Ⅱ.荒川洋治氏の詩の言葉の振り子①-美しさから肉感へ-

普通、詩人は、書いていて、その肉・感性が満足したら、その書き方の場所にとどまろうとする。『遣唐』のような詩集を出したら、多くの詩人がその世界に留まる。しかし、荒川洋治氏は留まらない。なぜなら、あれは予定外の誤りだったからだと思う。しかし、『水駅』から『遣唐』まで7年。方向を定めるのに時間がかかったか、経済的な理由かはわからないが、『遣唐』以降のスピード(平均二年に一冊)を考えると長い。勝手な推測だが、荒川洋治氏の詩の言葉に対する考えの変化を外に発表したいと云う思いを考えると、経済的な原因だと思っている。

『水駅』の9年後、『遣唐』の二年後、荒川洋治氏は、次の変化を明らかに示す作品群を詩集として発表した。下の詩を含む『倫理社会は夢の色』である。

「オリエントの、/銀座の、それも、/暗い道をひろって歩いていたら いきなり/行き止まりにぶつかり息が止まったので/彼女を抱きよせ/網にかけ スカートをたくし上げて/指を入れ お尻のあなにさわった/彼女は意外なことに/このぼくの狂暴に/体をくっつけてきた。
あれでよかったと思う?/と/ユタカにたずねると/(おまえはほんとにスケベエだなあ/・・・・・・・・(略)・・・・・・・・」(『オリエントの道』荒川洋治)

『オリエントの道』はこう終わる。

「・・・・・・またスケベエなことをさせているのだが/お尻をかたくとじて/ややさからうふりをするだけの彼女とは/空が浮かぶ秋になっても/どうすることもできず あなを撮るはずの/レンズを/澄みゆく風景に向けている」

次は、同じ詩集の『森』である。
「アパートに/六階/なんてあるのか/アパートって/五階までをいうんでしょ/六階より高いと/マンションでしょう/うん、そうだけど/わたしのところは/アパートの六階なの/六階のアパートでは/なくて/アパートの六階/なの/と/N子/いいはる/・・・・・・・・・恋人のおしりを見ていると/かわいそうになって/大丈夫だ心配するな と/でも片目で/パンチラ見ながら/ついていく/にしても/彼女/アパート/なんだなあ/アパートにしんから ほれているんだなあ/と思うと不びんで/もうあそこにゆびも入れ手も入れての/知り尽くした深い森の仲間なのに/けものは今日/ハイヒールをはいている/六階までは/ことだろう」(『森』)

『森』はこう終わる。「けものは今日/ハイヒールをはいている/六階までは/ことだろう」の四行は、彼の詩の構造の基本、記憶に残る終わり方である。

私は、これらの作品を、『水駅』から、作者の肉感へ戻る過程だと思うし、作者の内側にある、言葉との強い結びつき、男女の交尾のような結びつきへの欲望の表れだと思っている。ただ、詩人は、終わり方をまとめる事で、書きたいことをそこに明確に書いた。私は、一般的に詩人は自分の作品と交わりたいという変態性、あるいは同化したいという現実と理念をいっしょにしたいという願望をもっていると思う。『水駅』では、あまりに美しい喩の世界を作るために、その変態性、詩人の作品と同化したいという欲望を抑えていた。『倫理社会は夢の色』は、荒川洋治氏の感性がバランスをとるために、その欲望を解放し、言葉を扱う知性と感性に作者、あるいは創造者としての満足を与えたのだろうと思う。

Ⅲ.荒川洋治氏の詩の言葉の振り子②-男から女へ-

通常、ここまで振れたら詩人はしばらくそこに留まろうとする。そこで止まらないのが荒川洋治氏である。二年後には、もう一歩先まで振れた詩集『ヒロイン』を発表している。


『ヒロイン』の特徴は二点ある。

そのひとつが、語り手が女性の作品がいくつかあること。これらの作品の中で、書き手の男性と、語り手の女性が時々会話するように入れ替わることがある。

「・・・・そうよ/きっと二人が/短い友の 暗い/記念に/手を合わせて 生んだのだ・・・・」『短い友』

「・・・・ちょっと手を/あそこで洗っておきましょうか/振り向くと黒い水辺/ちょっとあそこを/洗っておきましょうか/・・・・」『小公女』

詩人は、こう書いている。「そもそも男が一遍の詩をつくるということは、自分のなかに女性的なものをつくりあげるという行為に他ならない。」「彼(壇一雄)は本質的なストレスなしに、男を書いた。また生きることができた。そのことをとやかくいうつもりはない。最終的には、ぼくなど女性の立場に立てる人間ではないと思うからだ。そうはいっても、ストレスがないわけではない。そのストレスから、漢詩という"文化"をあえて別件的な眼で切りきざみたいと思い立つほどの警戒心は残されている、ということなのだ。」(『詩は女であらねばならない』)

・・・この言葉をどのように受けとめようか。『中間にこのままでいること』で瀬尾育生氏はこう書いている。・・・「宣長の用語を借りれば、荒川洋治はいわば『さかしら』を捨て漢意や知につながる線を恋に捨てて、物はかなく女々しき場所に入っていった。民をそこない國をみだりて、という事態がに心を砕き思いをめぐらす時代がもう過ぎ去ったから?・・・・・・」「人々の苛立ちと不快と敵意の鏡像としての荒川洋治ができあがった。・・・・・」瀬尾氏の言葉でいえば、「なまぬるい詩の現場に居るのに、それを知らずに、『なまぬるい詩に定型を、あるいは意味を、力を』という詩人たちに、現実を見せるため」に、荒川洋治氏は、隠語のような詩をかいている、ということになる。

当たっているのかもしれない。しかし、少し違うのかも知れない。私は、荒川洋治氏は、現代詩に必要だと思われている多くの要素を必要ないではないか、と言いたいのではないだろうかと思っている。これは、最初にあげた①から⑥の②の一部、書き手と語り手は別の性で良いではないか、さらには、なぜ、現代詩は男性の視点での男性の語り手の作品が当たり前なのだ、漢詩の訓読の影響ではないのか?!ということである。

こう書いている。「漢詩は日本人の感性にそぐうやわみを出した。訓読の作業そのものが女性を表し得たが、白文(訓釈を施さない原文)が、性のからみを潜ませるものである点がみおとされた。日本文で読ませられる漢詩は、男そのものになってしまい、どこをどう叩いても女性の髪一本、出てこない。そして明治以降のいわゆる『東洋の文人』(漢籍の素養ばっちりの人たち)の理解は、漢文脈の傑出した体現者の文章においても・・・・・」(『詩はおんなであらねばならない』)

漢詩からスタートした近代日本文学の流れの言葉は、男の思いを伝えるが、女の思いを伝えない。あるいは、男の言葉でも、もともとは女々しいところがあった文章が、その感情を削り、知性と力を表現する言葉になっているというのである。

彼の振り子のスタートからすると、その方が理解しやすい。詩の言葉は、意味として、強い意志、主張、書き手のモチーフを抱えて来た。小説のプロレタリア文学がそうであるように。「趣味だ/ぼくはプロレタリア文学を/娯楽で読むのでございます/・・・」(『夜明け前』)は、彼得意のアイロニーではないだろうか。つまり、言葉に、思想、力、男の生き方を詰め込むのは無茶だよ、日頃言葉が本当に(この言葉も荒川洋治氏は男の言葉とかんがえているだろうが)使われているのは、男と女の間ではないのか?!というのが彼の言葉への考えだと思う。

女々しい男と女の言葉で、これが男と女の日常ではないの?と書いたのが『ヒロイン』ではないだろうか?そして、想像だが、そうでない言葉は幻であり、しかも、「男とはこうあるべき」「人はこうあるべき」という要求だと捉えているのではないだろうか。彼の、高村光太郎の詩や壇一雄の小説の言葉の言葉を丁寧に扱わない、ある種傲慢な言葉への姿勢を見逃さない細やかな視点、これが、彼の視点の目盛のひとつではないだろうかと思う。

「・・・君はもう帰りなさい/夜ふけだ/私は/君をそこまで送ってゆく/と/英雄でない人は語りかけていい」(『ヒロイン』)岸信介の名を使っているが、男なら誰でも良い。男はカッコいい英雄でなくて良い。言葉は、男の意思を表すものでなく、女に寄り添うものだ、と。現実はそうなっているではないか、それを今の日本語の言葉の感覚では表現できないぞ、今の現代詩では表しきれないぞと言いたいのではないだろうか。

Ⅳ..荒川洋治氏の詩の言葉の振り子③-意味から無意味へ-

『ヒロイン』には、もうひとつ、次の変化の兆しが見える。

作品『ライフワーク』である。

「フリーになって五年目だ/週に四、五本 月に二十本/新聞や雑誌に 原稿を書いている/・・・・・・・・/書く以外に五種類の仕事/ 〇雑誌編集二件/ 〇出版社活動一件/・・・・・」と仕事の内容が続き、M子、N子、C子、E子、雑誌「ブライダル」の人間が現れる。E子に「・・・/さあ、ほんとうは力のある詩人さん/がんばって一本書くのよ/セックスのあとは〆切りでしょう/〆切りのあとは(フフフ)/またわたしと・・・・・だから/と」そして、女性や雑誌社の人との長い会話の後、「・・・・コロンという音が合図だった/日没の壁がどんどん削られていたのだ/
ハコの絵柄は/気にもとめないですませられるところだが/それはひと気のない/スイスを思わせる みごとな山景色だった/百一本目のタバコはやはり/自動販売機から/産声をあげた」で終わる。

この詩は、もう一度振り子を振ろうという考えだろうと思う。

(つづく)

(2012.12.18)

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