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荒川洋治論⑥ー彼にとって形式とは何か?ー

2013-01-03 19:42:16
テーマ:評論・詩・荒川洋治
前回、荒川洋治氏にとって形式とは何だろうと『渡世』の幾つかの詩の終わり方を追いかけて、ひとつの疑問にたどり着いた。

それは、起承転結の結に心地よさを残そうとするのは、行分け詩で、散文詩でも同じである。荒川洋治氏には、『水駅』以来、行分け詩と散文詩の違和感はないのではないか。その代わりに、いつも言いたいこと、語りたいことが明確にあり、それをどこかに凝縮するために、書いているのではないか。そのために、それまでの長い行分けの詩も散文詩も、修辞として、最後の「言いたいことの」前書きになってしまうのではないだろうか、という疑問である。

実際、目的地が分かっていて詩の言葉の中を歩むこともある。また、全く目的地が分からず、言葉が導くままに歩んで、驚くところにたどりつく場合もある。しかし、その時も、言葉そのものが導いていた、過去の言葉の歴史と自分の言葉の経験とが導いていたというしかないような時がある。それは、荒川洋治氏も同じであろう。

つまり、⑤作者は言いたいことをもっている、このことが荒川洋治氏にとっては、「書きたい言葉がある」「書きたいイメージがある」のであり、それを詩の最後に、あるいは詩の頭や始まりに書くために、それまでの行を書いているのではないか?という疑問である。あるいは、予想外のところにたどり着いたら、それまでの言葉の道で、詩にならないところを切り落とす、必要と思う言葉の道を加えるのである。

このひとつの詩の作品の世界で到達すべきところへ到達したと、どう判断するのか、あるいはどのようにここが目的地と判断して終了するのか、考えようと思う。

Ⅰ.『渡世』の時の荒川洋治氏の位置

まず、今回のこの「荒川洋治論」のスタートと現在の彼の詩の世界との距離関係を確認しておきたい。スタートは、通常詩に要求するポイントを否定することだと考えた。

①詩は、真面目である。
②詩の作者と語り手は同じ視点、感性をもつ。
③詩の言葉には知性が感じられるべきである。
④詩の言葉はメッセージをもっているべきである。
⑤詩の作者は何か言いたいことをもっている。
⑥詩は美的である。
⑦詩の作者は作品を肉感的に感じるものにしたい。
⑧形式として、行分けである。
⑨詩と散文の区別がある。

荒川洋治氏は、詩の世界に現れる時、これまでの詩にとって必須だと思われていた上の項目の幾つかを、完全に無視あるいは排除してスタートした。①②④⑤⑦⑧⑨を排除し、彼は、知性と美的表現で、彼の言う「詩壇」を驚かせた。

その後、彼は、全てを排除する、つまり、詩の形・内容も壊していくと思った。特に、『ヒロイン』で知性を捨て、その次のステップは美的表現を捨てると思っていた。

ところが『渡世』は、私の予想と少し違うところへ彼の言葉の振り子を揺らした。

『詩とことば』で描いていた「社会的な問題」については、『渡世』で『VのK点』という作品がある。タンカー事故のオイル除去のボランティアのことを書いている。メッセージ性がもどる。形式は「ある程度」壊す。しかし、一部、行分けの形式と美的表現は戻っている。⑨を壊そうとしているのはわかる。残っているのは、①④⑤⑥、それぞれ少しずつである。

なぜ、そういう位置に来たのか?荒川洋治氏が無意識にそこに来た筈がない。彼はこれまでの詩の形式、言葉、語り手が男性になり言葉が限られること、全てにNOを言いたかったはずだから。

しかし、『渡世』では、もっとはっきりNOと言いたいことがあった。それを描いたのが、『雀の毛布』である。詩「壇」について書いた詩である。
こう始まる。
「詩か小説か それともエッセイか
フィクションなのか ノンフィクションなのか
娯楽小説か純文学か
区別もない ただただ言葉の
だらりとした夏帯

  兄弟でいっしょに勉強するときの
  机は
  二つの机より
  ひとつの机がいい
・・・・・・」(『雀の毛布』)

詩壇、文壇と呼ばれる、業界の人々の集まりである。多分、彼はそれを敏感に感ずるところがあって、意識して『水駅』を出した。詩壇が反発できず、受け入れざるを得ないところに最初の印を立てた。彼のその後の計画は、詩壇の人々の作品のもつ要素をひとつずつ否定していくつもりだった、と私は思っている。それが、少し計画からずれてしまった。

それは、『雀の毛布』にあるように、詩、小説、エッセイ、フィクション、ノンフィクション、娯楽小説、純文学の区別をとりのけようという冒険である。詩でない言葉による作品の創造の試みである。どうして、彼がそこに固執するのかは分からない。多分、小説・純文学から感じる冷たい感じではないだろうか。

現実的に、これらの言葉による作品をすべてクロスオーヴァーする言葉による作品が可能かどうかは、私の頭では全く分からない。しかし、荒川洋治氏の頭にはその欲望があると思う。それは、最初に打ち立てた『水駅』という旗を捨てても良いという強さなのだ。

そのことを試みている『渡世』『空中のぐみ』『心理』については次回書く予定である。

Ⅱ.荒川洋治氏の結と修辞の部分

前回、「荒川洋治論⑤ーかれにとっての形式ー」で、荒川洋治氏には、『水駅』以来、行分け詩と散文詩の違和感はないのではないか。その代わりに、いつも言いたいこと、語りたいことが明確にあり、それが最終の何行かに凝縮するために、書いているのではないか。そのために、それまでの長い行分けの詩も散文詩も、修辞として、最後の「言いたいことの」前書きになってしまうのではないだろうか、と書いた。

『おかのうえの波』にこう説明している。

「文章には起承転結という漢詩以来のルールがある。・・・・結では多少あたふたしながら内容のとりまとめにかかる。結のリズムは起承ではなく、転のリズムにあわせる。・・・・・ひとつの文章にとりかかるとき、ぼくはこれまたひとつの精神状態をもっている。その状態には、すでにして起承転結に近い世界があり、いまからとりかかる文章の話題や主題とは別に、ある心理の波をうかべている。・・・そして詩であれ散文であれ、ものをかきはじめるとき、ぼくの場合は、その心理の波は結の表情をしていることが多い。つまり、終わっているのである。・・・・・それで文章の起にあたるところ、起のリズムであるはずのところが、結になってしまったりする。」

つまり、詩でも散文でも、結、頭にある主題、書きたい世界は、どこにくるか分からない。また、それは、書き始める前に頭の中である程度の起承転結ができあがっているということである、ということである。

次回、詩、小説、エッセイ、フィクション、ノンフィクション、娯楽小説、純文学の区別をとりのけようという冒険、詩でない言葉による作品の想像の試みを考える上でも役立つので、『水駅』以来の詩集から幾つか作品を選びだし、「結」がどこにあり、その他の行・もしくは文章がどういう役目をなしているか、みてみたい。

『キルギス錐情』(『娼婦論』)
結:方法の午後、ひとは、視えるものを視ることはできない。・・・・初行
  ・・・・・・・
  ときおりわたしのてのひらに
  錐のように夕日が落ち
  すべてがたしかめられるだけだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最終行

『水駅』(『水駅』)
結:水を行く妻には告げて。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最終行

『消日』(『水駅』)
結:客を引くように
  そっと
  国の手をひくのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・詩の最終連前

『鎮西のために』(『荒川洋治詩集・鎮西』)
結:二、三のことを西国は、考えさせるのだ。・・・・・・・・・・・・・初行

『梅を支える』(『あたらしいぞわたしは』) 
結:この分では避けられぬ、このほうの/生き血のあらため/あたらしいぞわたしは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最終行

『醜仮盧』(『醜仮盧』)
結:近所の子が/ひかりものを寄越した/骨のあるところを/見せて眠れ/このしきかりいおは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最終行

『遣唐』(『遣唐』)
結:迷いを消すと/赤エンピツの火が図面の上をぐるぐる回った/振り出しの港を焦がして/真ッ黒にした・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最終行

『針原』(『針原』)
結:針原をとおって/震える地を運ばなければならない/不微動の原/
針原・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最終行

『倫理社会は夢の色』(『倫理社会は夢の色』)
結:倫理社会は 見たままではあり得ない。/トラックを呼んだ/大きなトラックが来た/から回りの車輪である/倫理が車輪であることは知られている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最終連

『ヒロイン』(『ヒロイン』)
結:君はもう帰りなさい/夜ふけだ/私は/君をそこまで送ってゆく/と/英雄でない人は語りかけていい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・最終行

こうしてみると、『水駅』から『ヒロイン』まで、ひとつひとつの詩の結、荒川洋治氏の頭にあったイメージ、色、風景、詩の中心に書きたかったことは見つけやすい。

これは、荒川洋治氏の詩の強みであり、弱みである特徴、詩の核となる「結」が作者の中でイメージされると、それの修辞となる言葉は、短くでも、長い詩でも、修辞である位置を越えて語ってこないということだ。それらの詩集の中で、『遣唐』がひとつ他の詩集と違っているように思う。それは、『遣唐』の作品では「結」以外の行が、単純な修辞におわっていないことである。言葉の少なさは、作者の言葉を選択への思いの入れ方が深くなったのだろう。自然にそのようになる。

言葉を少なくする時、詩人は言葉にかける思いを自然と大きいものにする。それが詩人であろう。

よって、『遣唐』で、荒川洋治氏の感性、肉体の感覚は、書くと云う行為の満足、魂の放出する満足を得たのではないか、と想像している。

しかし、その一方で、この「弱み」は、作者の意図的なものかも知れないと思う。男言葉と女言葉を取り上げたり、『森』(『倫理社会は夢の色』)で、詩の結びに、「けものは今日/ハイヒールをはいている/六階までは/ことだろう」と書いた詩人である。

「アパートに/六階/なんてあるのか/アパートって/五階までをいうんでしょ/六階より高いと/マンションでしょう/うん、そうだけど/わたしのところは/アパートの六階なの/六階のアパートでは/なくて/アパートの六階/なの/と/N子/いいはる/・・・・・・・・・恋人のおしりを見ていると/かわいそうになって/大丈夫だ心配するな と/でも片目で/パンチラ見ながら/ついていく/にしても/彼女/アパート/なんだなあ/アパートにしんから ほれているんだなあ/と思うと不びんで/もうあそこにゆびも入れ手も入れての/知り尽くした深い森の仲間なのに/けものは今日/ハイヒールをはいている/六階までは/ことだろう」(『森』)

すると、結び以外の結びを形容する修辞部分と、結びの繋がりは細いものになり、結びすら、これまでの詩の固定観念を壊そうという方向に進んでいるのかもしれない。つまり、下の全てを捨ててしまおうという意図があるかもしれない。

①詩は、真面目である。
②詩の作者と語り手は同じ視点、感性をもつ。
③詩の言葉には知性が感じられるべきである。
④詩の言葉はメッセージをもっているべきである。
⑤詩の作者は何か言いたいことをもっている。
⑥詩は美的である。
⑦詩の作者は作品を肉感的に感じるものにしたい。

『ヒロイン』まではまだ、なんとか、美的であろうとしている。「けものは今日/ハイヒールをはいている/六階までは/ことだろう」(『森』)という終わり方と同じように、『ヒロイン』の『ライフワーク』の結びは、つぎのようになる。

「・・・・コロンという音が合図だった/日没の壁がどんどん削られていたのだ/
ハコの絵柄は/気にもとめないですませられるところだが/それはひと気のない/スイスを思わせる みごとな山景色だった/百一本目のタバコはやはり/自動販売機から/産声をあげた」で終わる。

初期の荒川洋治氏の言葉の結び、それが修辞であろうと、その美しさから、だいぶ遠いところに来た。しかし、これが、荒川洋治氏が目指すところか、詩の言葉が自ずから向かっているところかは分からない。詩人が、美を薄めることは、本来の詩人の言葉との共同作業とは逆の作業であるからだ。絵の世界では、キュービズムがあり、詩の世界ではタダイズムがあった。しかし、いづれも、絵や詩の表現の一方法であり、一個人としての画家・詩人の作風となった。詩そのものの形式の変化にはいたらなかった。

万葉集からの和歌の歴史、近代詩の歴史で、美を薄める、あるいは美を壊すことで、詩の新しい流れを作った詩人はいない。一時的に、戦争詩のように、プロパガンダになった時、宣伝が目的なので、美は除外されたが。

荒川洋治氏はどこに向かっているのか?次回、『渡世』以後の荒川洋治氏の「結」と修辞、形式を壊すことの意志についてまとめてみたい。

(2013.01.03)

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