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荒川洋治論⑧ー彼の「壇」の境の無くし方②ー

2013-01-05 09:39:34
テーマ:評論・詩・荒川洋治
前回、「荒川洋治論⑦ー彼の「壇」の境の無くし方ー」と言う題で、『渡世』(1997年)とそれ以後の詩集、『空中のぐみ』(1999年)、『心理』(2005年)について、読みながら考える事にした。

『渡世』について、次のことを書いた。
①詩集の始まりに、「壇」について書いた『雀の毛布』をおき、自分を『迷い込んだ雀』として書いた、詩全体が暗喩(といっても、分かり易いが)になっていると思える。

②散文詩は少ないが、内容は、エッセイか小説になっている。あるいは、そう考えて呼んだ方が読みやすい。しかし、彼の『水駅』以来の詩の書き方ー「結び」を書くーはのこっており、その美しさを書き残したいと云うことは依然と変わっていない。

③行分け詩が散文になった。以前からも、その傾向はあったが、二、三行の暗喩、体言止め、助詞・助動詞・動詞の省略、文節の順序を入れ替える事での作者の感情表現が、ほとんどなくなった。作品は、行分けしてあるだけで、もし行分けしなければ、エッセイ・小説の散文になる。

そして、詩『渡世』について、次のように書いた。・・・・・・・・次の部分は、作者の、詩「壇」への意思表明だと思うので、引用しておこう。

「 ぺたぺた。
ちゅう。ちゅう。

『ね、うれしいんでしょ。これで、いいんでしょ。
でも、どうして、そんな顔になっていくの?』

そんなとき
言葉は輝く
お尻にさわる は
その力なさにおいて
輝く
日本が
残していい言葉だ
(それがあまりにも
 身の近くにあることが
  結露をそこねるとしても」

言葉の軽さ、卑猥さを避けるのが詩ではない。詩は、全ての言葉を用いるという表明かも知れない。あるいは、娯楽小説と詩の境を取り除くと云う意思表示かもしれない。・・・・・・・・・・・

【『渡世』の印象】
『雀の毛布』だけでなく、散文詩を除いて、全体が、詩「壇」についての作者の心境告白に思えてくる。同時期に書いた作品だから、心境は変わらず、詩の世界まで入り込んでくるからかも知れない。高見順賞受賞だが、それだけ、すぐれた詩集が無かったのか、それとも、荒川洋治氏の新しい「努力」を寛容に評価しようと判断したのか、分からない。しかし、荒川洋治氏が、「壇」の境を壊したいと云うのは明確に出ている。一種の「プロパガンダ詩」といっても良いかもしれない。

B.『空中の茱萸』

『空中の茱萸』は、1997年から1999年の間に『現代詩手帖』等に発表された作品16篇がおさめられている。読んで気付いたのは、次の三点である。

①散文詩が9篇と増えた。しかも、『完成交響曲』のように対談方式があり、話し手の名前を出す、伏字を使う、ひとつの詩の中で【第一種】とか種類分けを行う、段変えを多用する、等自由度が増した。

②『完成交響曲』は、詩「壇」をめぐる詩「壇」(岡本)と荒川(浜田)の対話と考えるしかなく、荒川洋治氏の中では『渡世』での心境が続いている。他の作品も、詩集の作成・販売に関する作品があり、以前同様確信を持って進めていると思える。「固くなった月」や「ジバゴ」等も、荒川洋治氏の考える新しい詩の流れと考えられる。

③『ヒロイン』の頃から、エッセイで描いていた、詩の言葉は固い男性言葉が当たり前となった。女性言葉、日頃の男女の言葉で書くのが、詩が「壇」から降りることだ、という表明が、はっきりしてきた。

『渡世』で「 ぺたぺた。/ちゅう。ちゅう。/『ね、うれしいんでしょ。これで、いいんでしょ。/でも、どうして、そんな顔になっていくの?』/そんなとき/言葉は輝く/お尻にさわる は/その力なさにおいて/輝く/日本が/残していい言葉だ・・・」とあったが、『空中の茱萸』では、それが暗喩として多く使われている。

「固くなった。もう固くなった。このようにいっぱいの多くの月がいまの人間によってさかんに描かれるということは自分の月はまちがっていた、いっぱい見かけるあのような静かな、みだらな月でいいのではないか。もう固くなった。固くなった。そのような月ばかりでこの世界は続けられるのかも知れない・・・」(『石頭』)そして、女性に声をかけられ、外に出て美しい月を見るという内容だ。

固くなった、みだらな月とは、荒川洋治氏の詩風の作品である。それを良いなと思っても、詩「壇」の眼があり、書けない詩人に、書いてはどうです、問題ないですよ、という誘いで在る。

こうした暗喩の用い方がさらにエロチックになっている。

④皮肉あるいは冗談
『冬の紅葉』の中の「物流よ、紅葉となれ」の一行は、返品費用に関する物流会社課長との会話の最後のことばである。どうも、紅葉が赤字という文字に見えて、作者の小さい毒を感じるのだ。

⑤行分け詩は完全に散文の行分けになった。

次の詩集『心理』は2000年から、2005年にかけて発表された作品であり、少し開いて、『渡世』『空中の茱萸』と方向が変わっている。散文詩が少なくなり、行分け詩の特徴(体言止め、言葉の順序が話し手の心境に沿っており、散文を作ろうとしていない)、郵便番号等いろいろなデータの引用の多用等の変化があるので、別に考えたい。

Ⅱ.『渡世』『空中の茱萸』の作品のめざしたところ

『渡世』『空中の茱萸』にある荒川洋治氏の思いは、私は、次のように考えている。

①当初からの「詩か小説か/それともエッセイか/フィクションなのか/ノンフィクションなのか/娯楽小説か純文学か/区別もない/ただただ言葉の
だらりとした夏帯」を目的として、ここまで荒川洋治氏は進んできた。その後のことは『心理』を読んでみないとわからない。

もし、言葉のもつイデア(どんなに卑猥な言葉でもイデアはイデアである)を伝え、その流れを楽しく読んでもらう言葉の作品と、話し手が自分の思いを表すために言葉の順序・イデアを変える言葉の作品、この二つのポイントで言語作品を見ると下のようになる。

≪言葉のイデアと流れを重要視する≫
↑娯楽小説
↑   ノンフィクション
↑      純文学
↑        エッセイ
↑          演劇脚本
↑            詩    
→→→→→→→→→→≪作者の思いを表現することを重要視≫

荒川洋治氏は、右下の「詩」からスタートした。彼は、上の作品の形態の違いによって、言葉の用いられ方が違うこと(違う歴史を通して変化し、現在の形態あるいは慣用になっていること)に違和感を感じた。同時に、その歴史の中で、形態の違いによって、交流がないグループができていることにもっと違和感を感じた。その違和感は、彼の詩を読むと嫌悪感に近い。

『水駅』以降、『倫理社会は夢の色』や『ヒロイン』では娯楽小説の言葉の世界を詩に持ち込み、『渡世』『空中の茱萸』では、ノンフィクション・純文学・エッセイ・演劇脚本の形態や言葉を取り込んだ。

以前、彼は、詩の敷居の高さから読者が入ってこれない、と書いていた。私は、その機会は『倫理社会は夢の色』や『ヒロイン』の特徴を強くし、他の難しい要素をなくし、エロティクな娯楽小説と張り合う詩集を出すことが、最も良い方法ではなかったかと思っている。

娯楽小説、エッセイ、ノンフィクション、純文学、演劇脚本の順で、ひとつずつ段差のない作品を発表し、読者をつかまえる事。それしか方法はないのではないか、と思っている。唐十郎の舞台で小説を引用したり、俵万智の短歌が受け入れられたのは、観客、読者の方からである。

現在の詩の「壇」の高さをなくすには、外からしか方法はないだろう。しかし、それでも「壇」は残るだろうと思う。「壇」は、「壇」を自由に行き来する個人を認めるが、「壇」そのものが無くなったり、誰もが自由に行き来することは認めないだろう。

今、荒川洋治氏が自由に行き来しているかは知らない。しかし、上に書いたように、「娯楽詩」という分野をつくることはできただろうし、『水駅』の後、そのまま、「インフィクション詩」を簡単に書くこともできただろうと思う。しかし、彼はそうしなかった。理由は分からない。その時は、その欲望が強くなかった?でも今でもできるはずだ。もしかすると、詩「壇」に違和感はあっても、「詩」からははなれられないのかもしれない。


(2013.01.05) 


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