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荒川洋治論④ー彼の言葉の振り子②ー

2012-12-23 19:54:22
テーマ:評論・詩・荒川洋治
前回まで、詩の世界を平面に考え、その中心にシンボリズム・シュールレアリズムをおいたとして、つまり、1945年以降の現代詩の流れがあったとして、荒川洋治氏が詩に何を求めていたか、考えて来た。今回はその続きである。

Ⅰ.荒川洋治氏の振り子の方向

前回、下の矢印の図を描いた。詩が言葉の意味、メッセージ性と美学性にどの程度頼るかを断面で示したと考えて、それを、断面にして描いた。荒川洋治氏は、AからCへ円の円周を回るように歩み、まだ、その円周上を歩んでいる。その中心にある「詩」に、「きみはひとりよがりの言葉だ」というために、それをなしていると私は想像していると書いた。

A.詩のメッセージ性は少ない。美的感覚はある。ただし、詩人の肉感は不満足である。
↓ (『水駅』から『醜仮盧』まで)


B.メッセージ性、美的感覚もある程度ある。
↓ (多くの詩、そして偶然『遣唐』)


C.メッセージ性、美的感覚を壊す。ただし、詩人の肉感は満足する。
(『針原』から『ヒロイン』まで)

そして、『ヒロイン』の次の変化の兆しまでは感じた。それがどういうものかは、本当に分からなかった。その後の詩集を読んでいなかったと云う偶然のためである。そのことは、私にとっては面白いことである。15年前に読者が初めて感じた反応を、私ひとりで感じ考える機会となった。

前回、『ヒロイン』の『ライフワーク』について、こう書いた。

・・・・・・・「フリーになって五年目だ/週に四、五本 月に二十本/新聞や雑誌に 原稿を書いている/・・・・・・・・/書く以外に五種類の仕事/ 〇雑誌編集二件/ 〇出版社活動一件/・・・・・」と仕事の内容が続き、M子、N子、C子、E子、雑誌「ブライダル」の人間が現れる。E子に「・・・/さあ、ほんとうは力のある詩人さん/がんばって一本書くのよ/セックスのあとは〆切りでしょう/〆切りのあとは(フフフ)/またわたしと・・・・・だから/と」そして、女性や雑誌社の人との長い会話の後、「・・・・コロンという音が合図だった/日没の壁がどんどん削られていたのだ/
ハコの絵柄は/気にもとめないですませられるところだが/それはひと気のない/スイスを思わせる みごとな山景色だった/百一本目のタバコはやはり/自動販売機から/産声をあげた」で終わる。

この詩は、もう一度振り子を振ろうという考えだろうと思う。・・・・・・・・・

そのあとの詩集『渡世』を読んだ。

そして思ったのは二点である。
①いろいろな形をとりいれた。『ライフワーク』で試みたのは次の三点である。
・語り手の思いを別に書くために()を使う。・・・・これは以前からあった。
・メモのように、〇を使ったり、段下げを使う。
・「」で語り、思いを囲む。
・「・・・・・・・・・・」を行として使う
それに、次の詩集『渡世』では大きい変化はない。

②『渡世』での試み

・段変えがある。
『ヒロイン』は1986年、『渡世』は1997年。『渡世』で古いのは『赤くなるまで』で1992年である。目立つのは、書き下ろしが『雀の毛布』『渡世』『VのK点』『昨日の服』『バラの風』『ステンレスの裏山』の六編があり、その六編は散文形式を含まず、新しい試みは段変えだけである。・・・・つまり、大きく振り子を揺らすことはしなかった。

つまり、この11年間、荒川洋治氏は、散文形式を含む詩を『現代詩手帖』『ユリイカ』その他に発表していたが、詩集『渡世』発行時に、六篇散文形式でない詩を書いたということである。

その間、岩波現代文庫『詩とことば』を書いていた。そして、考えていた、というのは行き過ぎた想像だろうか。まず、あれほど現代詩人に見向きもしていなかった岩波書店が現代詩評論のシリーズを発行する。これは、ここ三十年の大きい変化である。

岩波書店側の敷居が低くなったのか、古典と現代が同居できるほど、現代に対する評価が高くなったのか? なかなか新しい波を作れない現代詩に岩波書店が憐れみを持ったのか? 現代詩のマーケットも必要な時代になったのか?・・・それは分からないが、良いことだと思う。

それは良いとして、『詩とことば』には、『渡世』を出す時の荒川洋治氏の気持ちを暗示する文章が何か所かある。

A.散文形式について

「Ⅰ章 詩のかたち」を読むに、荒川洋治氏の思いと、実際は語られていないことが見えてくる。そのスタートの題が「行分け」である。「行分け」の中で、夏目漱石の「それから」の一節を行分けにし、国木田独歩の「山林に自由存す」が最初詩で描かれ、散文になった例を引用している。そして、・・・・散文は近寄り易い。「詩だと、何か思わなくてはいけないのか、考えなくてはいけないのか、と思うから。散文を読むときとはちがう頭をつかわなくてはならないように思うから。」と書いている。「それは、なぜか。行分けには、作者その人の呼吸の仕方がそのまま現れるからである。」

散文が入り易い、と書いている。私は散文を読む時と、詩を読む時は、言葉に向かう姿勢が違う。だから、散文は入り易いとは思わないが、荒川洋治氏はこう書いている。19922年の『赤くなるまで』から1996年の作品まで、散文形式が含まれている。

この、「段変え」と「散文詩を一部に含むこと」は、作者にとっては新しい試みだっただろうと思う。しかし、『水駅』は、ほとんど散文詩形式に、一部、行分け詩を入れた詩がある。

例えば、『消日』。

「・・・・・・それから、たがいの石のような頬を黒い紐ですばやく囲うと、

客を引くように
そっと
国の手をひくのだ

それだけだ。・・・・・・・・・」(『消日』)

もうひとつ、『見附のみどりに』。

「・・・・・・・
遠く
ずいぶんと来た

いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代はさむい。葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。」(『見附のみどりに』)

散文形式と行分け形式の使い方は、荒川洋治氏は、多分、無意識に、『水駅』で身につけていた。それが、形式として、もっと先に行きたいと思ったのである。そのことを匂わせている随筆が『詩とことば』の『詩のかたち』である。

そして、マイヤーの詩を引用し、それを逆転させる。「詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、そのひとは存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。・・・・・・いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。散文は、つくられたものなのである。」

ここの部分は是非読んで頂きたい。と言うのは、優しい言葉だが、荒川洋治氏は、この章をこう終えているからである。「散文は、果たして現実的なものなのか。・・・・・・だが、散文がどんな場合にも人間の心理に直接するものなのかどうか。そのことにも注意しなくてはならない。詩を思うことは、散文を思うことである。・・・・」(『詩とことば』)

前回の詩に要求される項目のリストを次のように変更しよう。

詩の世界は、次のことで定義されると考えている、そして、それを壊したいと考えていると分かり易い。

①詩は、真面目である。
②詩の作者と語り手は同じ視点、感性をもつ。
③詩の言葉には知性が感じられるべきである。
④詩の言葉はメッセージをもっているべきである。
⑤詩の作者は何か言いたいことをもっている。
⑥詩の作者は作品を肉感的に感じるものにしたい。
⑦形式として、行分けである。

この①から⑤は『ヒロイン』までにNOと言った。そして、⑥と⑦を壊すために、『渡世』までの時間があったのではないだろうか。結局、書き下ろしの作品はすべて行分け詩になった。⑦は、正確には『水駅』で詩人は壊していたが、目的が違ったのだろう。『水駅』では、行分けは問題になっていなかった。詩人の意識は、言葉の意味、美に向かっていた。そして、メッセージ、美を壊して、肉感性を壊した。そして、その後、『ヒロイン』で⑥をこわした。

荒川洋治氏は、『渡世』までの期間、⑦行分けを含む、詩の形式を壊したかったのだろうと思う。しかし、できなかった。発行時には、行分け詩を書きおろした。同時に④⑤の、「メッセージ性」と「作者のいいたいことがある」が息を吹き返す。それがないと、書く意義を見いだせないと彼の理性が判断したのだろう。

B.読み手の呼吸(感覚)について

また、これまであまり触れなかった「読み手」について、『詩とことば』にこうある。「1970年代半ばになると、人々はことばの想像力や想像性より、物を楽しむことを優先する。そうした社会の空気もあり、現代詩はそれまでに存続した読者の関心からもはずれていく。行場を失った若い詩人たちは詩壇ジャーナリズムのなかでの限定的な名声を求めるようになり、ことばも思考も保守化した。論争も話題もない。・・・・・・詩人たちの作品そのものに原因がある。詩は、作者である『私』の趣味や感性をただ披露するものとなった。詩人たちは社会的な問題やできごとに正面から向き合う気持ちも力もなくした。・・・・自分のために詩を書く時代は終わった。詩の全体を思う、思いながら書く。そんなやわらかみをもった詩を構想する必要がある。」そして最後に、建築についての松山巌氏の行分け批評を引用し、「・・・・読む人の呼吸に合わせるように。詩のかたちが生かされた評論だ。・・・夢がある。これからのことばの姿かもしれない。詩の姿かもしれない。」

明確には書いてないが、書き手の呼吸が特別なもの(読みづらい独特なもの)でなく、読み手がすっと会わせられる呼吸で描かれた行分け詩が、望ましい詩の形かも知れない、と言っているのだ。

この『詩とことば』が書かれた時期が、2002年発行とあるだけで分からない。詩人の作品とどのように重なるかを不明だが、10年前、荒川洋治氏が詩について考えていたのは、このような事だし、その考えを頭の半分にもちながら、『渡世』以降の作品は書かれたと考えても良いと思う。

『渡世』の頭に『雀の毛布』がある。こうある。「詩か小説か それともエッセイか/フィクションなのか ノンフィクションなのか/娯楽小説か純文学か/区別もない ただただ言葉の/だらりとした夏帯・・・・・」「『壇』は消えて行く/雀の毛布のように/かぜに飛ばされて」

「詩壇」(どんなものか知らないが、二冊の詩の雑誌を中心に出来ているひな壇らしい)が消えて行くことと、詩・小説・エッセイの区別がなくなることを書いている。これは荒川洋治氏の誤解による希望あるいはちょっとした思いだろう。

私は、詩と小説では全く言葉に向かう向かい方が違うので、その二者が出版の社会でひとつであろうが、ふたつであろうがどちらでも良い。ただ、荒川洋治氏は、その「壇」と呼ぶフリーメーソンのような集団に違和感を持ったのだろう。

それでは、荒川洋治氏は「形式」について、本当に考え抜いたところまで行ったのだろうか。それは、後ほど考えよう。

Ⅱ.荒川洋治氏の『渡世』での位置

『渡世』で、荒川洋治氏は、ほとんど美を壊した。ほとんどというのは、一部どうしてものこっているところがあるからである。しかし、肉感性は消した。多分意識して消したんだろう。そして、『渡世』までの期間、行分けを壊した。そして、書き下ろしで復活させた。

前回の詩の円に続きを描くと下のようになる。

A.詩のメッセージ性は少ない。美的感覚はある。ただし、詩人の肉感は不満足である。
↓ (『水駅』から『醜仮盧』まで)


B.メッセージ性、美的感覚もある程度ある。
↓ (多くの詩、そして偶然『遣唐』)


C.メッセージ性、美的感覚を壊す。ただし、詩人の肉感は満足する。
(『針原』から『ヒロイン』まで。ここで円の反対側から折り返した)



D.メッセージ性がもどる。形式は「ある程度」壊す。しかし、一部、Bの頃まで行分けの形式と美的感覚は戻っている。
(『渡世』)

円周を回ってきて、スタート地点から最も遠いCを過ぎ、反対側をAへ向かっている。そこで、形式と美的感覚が戻ってきたのである。多分、作者の意図と関係なく。

『詩とことば』で描いていた「社会的な問題」については、『渡世』で『VのK点』という作品がある。タンカー事故のオイル除去ボランティアのことを書いている。

しかし、途中にスキーのK点越えの喩を入れたり、モーパッサンやバリスカン運動を入れる。そして、それらを含むたくさんの修辞の最後にこう書く。

「近くには/自分たちの生まれた家と死ぬ家がある/彼らは早く帰った」(『渡世』)

長い修辞の後、最後の数行に語り手の思いを表すのは昔からの荒川洋治氏の形式である。形式・美的感覚は過去のものに戻っている。そこまで完全に壊すと、作品として読み手に出せないと云う詩人の感性が働いたのだろうと思う。『詩とことば』で荒川洋治氏が語った「・・・・読む人の呼吸に合わせるように。詩のかたちが生かされた評論だ。・・・夢がある。これからのことばの姿かもしれない。詩の姿かもしれない。」という思いは、ここにあらわれているのかもしれない。

『渡世』の次の『空中のぐみ』がどのように変化していくかは、またその時考える。今は、1997年、『渡世』までが出版されていると考える。

Ⅲ.詩の形式

ここで、詩の形式について考えたい。多分、荒川洋治氏は、気付いているだろうが、散文詩と行分け詩での言葉の意味は違う。

先に引用したように、『詩とことば』にこうある。「詩だと、何か思わなくてはいけないのか、考えなくてはいけないのか、と思うから。散文を読むときとはちがう頭をつかわなくてはならないように思うから。」と書いている。「それは、なぜか。行分けには、作者その人の呼吸の仕方がそのまま現れるからである。・・・・・・詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、そのひとは存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。・・・・・・いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。散文は、つくられたものなのである。・・・・・・散文は、果たして現実的なものなのか。・・・・・・だが、散文がどんな場合にも人間の心理に直接するものなのかどうか。そのことにも注意しなくてはならない。詩を思うことは、散文を思うことである。・・・・」(『詩とことば』)

散文詩では、言葉は、作者が込める心をそのままには表すことができない。散文詩は、始まりから終わりまで、どうしても心の込め方が平らにちかいように思える、読者は感じる、つまり、詩人が「この言葉」「この一行」と思う言葉も、散文詩では平坦になってしまう。

「口語の時代はさむい。」は、全体が行分け詩で、一部が散文詩の形になっている中に含まれている。もし、もっと強調したいなら、この一文を行分けにしただろう。


「しろい批評がある」(『ソフィア補塡』)

「風は風を超え
ひとは類をのみほし」(『タシュケント昂情』)

「国境、この美しいことばにみとれて、いつも双つの国はうまれた。・・・」
(『水駅』)

「世代の興奮は去った。ランベルト正積方位図法のなかでわたしは興奮する。」(『楽章』)

これらは、詩の始まり、あるいは行分けされた一行である。それが、これらが読者に強い印象を与えた理由である。行分け詩の言葉は、散文詩の同じ言葉より強い力を持っていると思う。

さきほど引用した『見附のみどりに』に手を加えてみよう。
「いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金のひかりをついてあるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。

口語の時代はさむい。

葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。」(『見附のみどりに』)

「口語の時代はさむい。」を行分けにした。詩人の意図は分からないが、行分けにすると、その言葉は、散文詩の言葉より、一段高いステージに置かれたように、インパクトは強くなる。

詩・散文・小説を同じように扱うべきだ、と言っているように思える荒川洋治氏だが、実際は、行分け詩の言葉が散文詩で使われた場合に比べてどれほど強い印象を読者に与えるかは、良く分かっていると思う。だから、「詩的」の「美しさ」を排除した『渡世』でも、行分けは残した。

詩は、ヨーロッパ・中国・インドではもともと韻文で、行分けであった。それが近代になって散文詩を生みだした。日本の場合は、散文と、五七五七七の韻文が別々の流れをつくり、韻文の詩あるいは行分け詩としてはっきりしたのは、近代になって、ヨーロッパの韻文を翻訳し輸入してからである。

日本では、近代詩として生み出されたのが行分け詩で、言葉で詩人の感性をより明確に表すことに、日本の近代詩人たちは、五七五七七の行分け詩から、ソネットであり自由詩へと、考えと感覚を表現する新しい形式として喜んで受け入れた。

私個人は、形式については、行分け詩が基本、その上で必要に応じて散文詩を一部含む形が最も効率的で、書きやすい。荒川洋治氏もそう考えているのではないだろうか。その上で、段変え等は、言葉を直接読み手に伝えるには、無意味だと思っているが、これはこれからいろいろな詩作品を例としつつ考えて行きたいと思う。

詩の形式と、抒情、そして社会性について、あと、二、三度、荒川洋治氏の詩集を台に書こうと思う。

(2012.12.24)


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