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村上春樹『1Q84』BOOK1-3を読み終える。
ジョージ・オーウェルにとって『1984』がこれからの時代への警鐘であったとすれば、『1Q84』は村上春樹の、国家社会が『1984』と少し違った現在の日本・アメリカ・ヨーロッパで生きる自分自身の生存と書くことの意味の再発見だろう。
『1984』のウィンストンとジューリアにとっては、生きること・愛すること自体が困難であり、簡単には全うできないものだった。そこでは、人は生きるために裏切り、愛そのものが死に絶えていった。
『1Q84』では、...青豆と天吾は、10才の時に感じた強いつながりを求めて20年生き続け、1984と少し違う時間と空間である1Q84に行き、出会い、二人が一緒に生きるべき世界に戻ってくる。NHK集金人の天吾の父親、エホバの商人を想わせる青豆の家族、オーム真理教を想わせる「さきがけ」、そのリーダの暗殺、娘の「ふかえり」、ふかえりが書いた小説『空気さなぎ』。そして、ふかえりを介しての青豆の天吾の子の妊娠。これらは、青豆と天吾が、完璧な世界へたどり着くまでの過程にすぎない。
また、1Q84という青豆と天吾のもうひとつの心の世界で作られる「空気さなぎ」は、作者にとって、現実社会と関わらず閉じたままの小説の世界で、世界から受動的に感受し語るだけの、作者が生きる世界とは別の世界だと言いたいのかもしれない。
そういう意味では、『1Q84』で村上春樹は、「私は別の世界の物語を作るのでなく、この世界を生きるために書く」と宣言しているように思う。
各節ごとの描写は、以前からの喩えや感性のこまかさを見せながら、小説のストーリーの進行は、全く違うところでスピードを調整している感じがする。そこに、「私は、別の世界を読者に感じさせるために書くのではない。どう生きるか伝えるために書く」という意思を感じる。
スペインでの授賞式での演説で「作家は何か希望になることをしなければいけない」と語ったが、それが、『海辺のカフカ』から、『1Q84』へかけて村上春樹が変化してきたことのように思う。それまで、感性が受け止める心の風景を描いてきた作者が、男と女が一緒にいることで何も欠けていない完全な世界を手にできる、と「言いたい」と思って書いたように思う。
主人公の青豆と天吾の、これから何に出会おうとそれを受け入れ、いっしょに生きていこうという思いが、恋愛小説のようであろうと、物語として平板な終わり方であろうと、今の村上春樹のこの世界への姿勢だろうと思った。(2011.7.1)

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