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カズオ・イシグロの世界⑤愛のさみしさ

カズオ・イシグロが2015年に発表した長編小説が『忘れられた巨人』である。

5世紀頃、サクソン人がブリテン島に住み始めた時代のひと組の老夫婦が中心となるものがたりである。ブリトン人のアーサー王が、サクソン人とブリトン人の間の殺戮の争いの後勝利し、それぞれに憎しみが残っているにしても戦いを終わらせて平和をもたらして死んだ。その後、いつでもふたつの民族の間で争いが再発しかねない状態のブリテン島が舞台である。鬼が人間を襲ったりする頃の話である。

年老いたアクセルとベアトリスはブリトン人の村で蝋燭を持つことを許されず過ごしている。息子がいたかすかな記憶があるが、顔も思い出すことができない。誰もが昨日のことすら忘れるほど記憶を失っている。竜の息が霧となり、それがみんなの記憶を消しているとひとびとは考えている。

ある日アクセルは旅に出て息子に会いに行くことを考える。そのことをベアトリスに話すと、ずっと旅に出ることを提案していたのに、反対していたのはアクセルだと言う。アクセルは記憶にないが、ベアトリスもよく思い出せない。二人は旅で出る。多分数日で息子が住む村にたどり着くと想って。旅の中で、二人の諍いに嫌気がさして息子は家を出ていったことをかすかに二人は思いだす。

雨やどりに入った古くは豪華な建物であったことがわかる廃墟で、二人はひとりの船頭と出会う。極めて強い愛情で結びついているカップルは、船で渡った島で一緒に過ごすことができるが、そうでないカップルは片方だけが渡ることができ、もうひとりはこちらに残ることになり、島に渡った方は完全な孤独のなかで過ごさなければならないと彼は言う。

旅の間、二人は過去を少しずつ思い出す。出会いの時の思い、それぞれの行った不貞、アクセルが戦士としてアーサー王に仕えていた時の旅と殺戮。

途中の村で出会ったサクソン人のウィスタンと少年、アーサー王の甥で竜を探して旅を続けているブリトン人のガウェィン卿、彼らとの出会いはアクセルとベアトリスに記憶を少しずつ取り戻す機会と、ブリトン人とサクソン人が互いに残酷に殺しあった過去を思い出させる。

竜を殺すと記憶が戻るかもしれない、その記憶には二人の愛しあった過去が含まれているだろうから、強い愛で結びついて生きてきたことを確認できるだろうと考える。しかしその記憶にはブリトン人とサクソン人が殺しあった過去の他、ベアトリスとアクセルが互いに相手にたいして冷たくふるまった記憶やそれぞれが他の異性にはしった記憶も含まれている。それらの記憶が『忘れられた巨人』だろう。

ブリトン人のガウェィン卿とサクソン人のウィスタンは二人で竜を殺す。ブリトン人への復讐の戦いを計画しているウィスタンはガウェィン卿を殺し、少年を連れてサクソン人の村に戻っていく。次はブリトン人への復讐のために戻ってくることになるのだろう。

島へ渡る船着場で、ベアトリスとアクセルは船頭と話し、ベアトリスだけが先に島へ渡ることになる。アクセルは島へは渡れないかもしれない。島とは死後の天国かもしれない。その別れはかなしさとさみしさに満ちている。

ひとは強い愛情で結びつくことができるのだろうか。作者はそれには疑問をもっているように思える。たとえカップルの間でもほとんど不可能かもしれない。それほど人間は奥底に冷たいものをもっていると考えているように思える。

カズオ・イシグロはインタビューにこう答えているーーーー私は今回の物語(『忘れられた巨人』)では、社会における記憶だけでなく、個人のレベルにおける記憶についても書いています。例えば、夫婦の間における記憶ということについて非常に関心があったからです。愛というものの本当の大切さは何なのか。それは何に基づくものなのか。同じ思い出をシェアしていることに基づくものなのか。死に直面したら愛はどうなるのか。死を乗りこえるだけの強いものなのか。そういうことも記憶を使って考えたかった。・・・・・・そうした思いから『忘れられた巨人』が生まれました。この作品では、国家の記憶、というものを扱っています。けれども、そもそも、国家の記憶、とはいったいなんでしょう。それは正史として国民が教わるものでもあり、現代であればエンターテインメント映画などで表出されるような集合的な無意識のようなものでもあり、あるいは世代を超えて口伝えに教わるような何かでもあります。そして、それが意図的にある方向付けをされることで、人びとが戦争へと向かっていくようなことが起こります。ボスニアで起きたのはまさにそのようなことでした。埋められた記憶が、意図をもって掘り起こされてしまったのです。おそらくどんな社会にとっても、何を記憶し、何を忘れ去ってしまうべきかを決定することはとても大きな問題です。そして扱うのがとても難しい問題です。この問題への興味はボスニアで内戦が起きた際に、わたしのなかで明確に意識化されました。ベルリンの壁が崩壊し、これから平和に満ちた新しい時代がくるという予感のただなかで、あの惨劇が起きたのです。これまで近所で暮らしていた人たちが互いに銃を向け合うようなことが、わたしたちが夏に観光で訪れていたような場所で起きたのです。これはヨーロッパに暮らすわたしには非常に大きなショックでした。そして、そのショックが冷めやらぬうちに、今度はルワンダで近隣の民族を殲滅してしまうようなジェノサイドが起きたのでした。
こうした動乱を見たうえで、改めてわたしがよく知っているような国、イギリスやアメリカ、フランスや日本をみてみると、一見、安定しているようにみえていても、ボスニアやルワンダと同じように「埋められた」何かがあることがみえてきます。そしてそれを掘り出したほうがよいのか、それとも埋められたままにしておくのがいいのか、それを誰がどう決定するのかは、とても重大な問題であることがわかってきたのです。ーーーーさて、わたしたちは死をのりこえるだけの強い愛をもっているだろうか。この日本の社会に埋められている記憶の何を掘り起こし、何を埋められたままにして忘れるべきか、わかっているだろうか。

アクセルとベアトリスのように、忘れることで平和に保っている男女がほとんどではないだろうか。また国と国も、民族と民族も同じではないだろうか。記憶には憎しみが混じっているのではないだろうか。

今回のノーベル賞受賞はカズオ・イシグロの過去の作品すべてを総合して考えたのであろうが、わたしには『忘れられた巨人』の重さが秤を大きく動かしたように思えてならない。ノーベル文学賞は、理想を追求する作品を書いた文学者に与えられると言われてきたことを考えるとわたしの推測は当たっているように思う。

カズオ・イシグロはこれまでの少ない長編小説の根底では同じ感性で人間のかなしみをえがきながら、その物語の場や設定される登場人物は全く違う作品を書いてきた。

現在63歳。著者が61歳まで十年かけて書き上げたのが『忘れられた巨人』である。次の作品はあと数年から十年は待たないといけないだろうと思う。しかし、また新しい視点で新しい問題に取り組んでくるだろう。そういう意味では楽しみである。作品が表すのが、同じようなさみしさやかなしさであるにしても、読んでみたいものである。

2017/11/11に書いたものだが、手を加えないことにした。

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