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荒川洋治論⑤ー彼にとっての形式ー

2012-12-25 12:43:02
テーマ:評論・詩・荒川洋治
前回まで、荒川洋治氏が、詩「壇」、そこで認められる歴史的な美、漢詩の訳詩から出来上がった美学に反発を感じつつ、自らの詩を、日本の「詩」というイデアを壊す方向に導いてきたと書いた。そして、故意、無意識に関わらず、ある程度まで、それは為されたと思う。

【簡単な荒川洋治氏の詩の歴史】

荒川洋治氏は、日本の詩「壇」がイデアとする詩を中心に、下のように円を描くように回っていると、私は考えている。『水駅』で勢いよくスタートし、ぐるーっと回りはじめたのだ。

そして、円との中心の距離を測るのは、下の九つの要素である。日本詩「壇」が良しとかんがえてきたことである。読み進めるに連れて、わたしも要素を増やさざるを得なくなった。

①詩は、真面目である。
②詩の作者と語り手は同じ視点、感性をもつ。
③詩の言葉には知性が感じられるべきである。
④詩の言葉はメッセージをもっているべきである。
⑤詩の作者は何か言いたいことをもっている。
⑥詩は美的である。
⑦詩の作者は作品を肉感的に感じるものにしたい。
⑧形式として、行分けである。
⑨詩と散文の区別がある。

それに対して、荒川氏は、その都度、何かの要素に対してNOと意志表示する作品を書いてきた。私は、若い時はそういうものだと思うし、荒川洋治氏の詩に対して求めるものが、彼の理念に基づいていたから続いているのだろうと思う。多分、その理念とは、言葉は自由で、言葉による作品はひとつの場で語られ、ひとつの場で評価されるはずだ、というものである。これは私の想像であるが、そう考えないと論理的におかしいのである。下は相当大きく判断した。

A『水駅』から『醜仮盧』まで。
.詩のメッセージ性は少ない。美的感覚を重要視する。ただし、詩人の肉感は不満足である。②④⑤⑦⑧をなくす。残るのは①③⑥⑨
↓ 
B.偶然『遣唐』。多くの詩人の作品はここに入る
メッセージ性、美的表現もある程度ある。④がすこし入る。

C.『針、』から『ヒロイン』まで。
.メッセージ性、美的感覚を壊す。ただし、詩人の肉感は満足する。①③④⑥をなくす。残るのは、⑦と⑨である。

D.『渡世』
『詩とことば』で描いていた「社会的な問題」については、『渡世』で『VのK点』という作品がある。タンカー事故のオイル除去のボランティアのことを書いている。メッセージ性がもどる。形式は「ある程度」壊す。しかし、一部、Bの頃まで行分けの形式と美的表現は戻っている。⑨を壊そうとしているのはわかる。残っているのは、①④⑤⑥

『VのK点』は、途中にスキーのK点越えの喩を入れたり、モーパッサンやバリスカン運動の喩を入れる。そして、それらを含むたくさんの修辞の最後にこう書く。
「近くには/自分たちの生まれた家と死ぬ家がある/彼らは早く帰った」(『渡世』)

前回、私はこう書いた・・・・・・長い修辞の後、最後の数行に語り手の思いを表すのは昔からの荒川洋治氏の形式である。形式・美的感覚は過去のものに戻っている。そこまで完全に壊すと、作品として読み手に出せないと云う詩人の感性が働いたのだろうと思う。『詩とことば』で荒川洋治氏が語った「・・・・読む人の呼吸に合わせるように。詩のかたちが生かされた評論だ。・・・夢がある。これからのことばの姿かもしれない。詩の姿かもしれない。」という思いは、ここにあらわれているのかもしれない。・・・・・・・・・

Ⅰ.詩の形

前回、詩の形について、こう書いた。荒川洋治氏は、『詩とことば』で、書き始めは、「・・・・散文は近寄り易い。「詩だと、何か思わなくてはいけないのか、考えなくてはいけないのか、と思うから。散文を読むときとはちがう頭をつかわなくてはならないように思うから。」と書いている。「それは、なぜか。行分けには、作者その人の呼吸の仕方がそのまま現れるからである。」と。これは一面当たっている。散文は、言葉を強調したり、書き手の心の表現よりも、言葉そのものがもつイデアを用いて、多くの人が簡単に理解できることを、多くの人が感情を共有できることを、目的のひとつにしているからである。

詩について、こう書いている。「詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、そのひとは存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこともある。・・・・・・いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。散文は、つくられたものなのである。」・・・「散文はつくられたものなのである」と言う言葉が何を指し示すか、韻文から散文ができたということか、人間の発語は、単語の場合(「あっ、危ない」とか「わあ、真白」とか)が多く、散文はそれに情景、語り手の心の中を描いて「つくった」ということか、両方かもしれない。
そして、こう終えているからである。「散文は、果たして現実的なものなのか。・・・・・・だが、散文がどんな場合にも人間の心理に直接するものなのかどうか。そのことにも注意しなくてはならない。詩を思うことは、散文を思うことである。・・・・」(『詩とことば』)

『詩とことば』には、散文で在りながら、行分けすると行分け詩になる文章を引用したり、しているが、基本となる要旨は上の言葉である。・・・・・・・・・散文は、人間の心理を直接表すか??・・・・・・・・と言う問いである。マイヤーの詩『鎮魂歌』を引用し、散文にすると作者の気持ちが消えると説明し、ヨシフ・ブロツキーの『ジョン・ダンにささげる悲歌』を引用し、言葉を並べる事が詩の形のひとつであると説明している。

荒川洋治氏は本当にそう思っているのか?私は疑問である。

そうでないと、⑨詩と散文の区別に悩む必要はない。散文は、よほど意識しないと、著者の心を表さないと感じているからこその⑨のぎもんである。

Ⅱ.詩と散文の言葉

詩と散文は、多くの場合違う言葉を要求する。作品の目的として、つまり、読者にイデアを伝えるためにである。

『渡世』に入っている『雀の毛布』である。「壇」について書いた詩である。
こう始まる。
「詩か小説か それともエッセイか
フィクションなのか ノンフィクションなのか
娯楽小説か純文学か
区別もない ただただ言葉の
だらりとした夏帯

  兄弟でいっしょに勉強するときの
  机は
  二つの机より
  ひとつの机がいい
・・・・・・」(『雀の毛布』)

私は、「だらりとした夏帯」がひかかって仕方なかった。ひかかったと云うのは、詩として読む時、私たちは、「だらりとした夏帯」の共通するイデアよりも、読み手の「言葉の歴史の感覚」でよむのではないか。小説ではどうだろうという疑問である。『雀の毛布』を散文にするとこうなる。
「詩か小説か、それともエッセイか。フィクションなのか、ノンフィクションなのか。娯楽小説か純文学か。区別もない、ただただ言葉の、だらりとした夏帯。兄弟でいっしょに勉強するときの、机は、二つの机より、ひとつの机がいい」

小説では暗喩を用いると、読み手に考える事を要求する。

「詩か小説か、それともエッセイか。フィクションなのか、ノンフィクションなのか。娯楽小説か純文学か。区別もない、ただただ言葉の、だらりとした夏帯のようなものなのだが。兄弟でいっしょに勉強するときの、机は、二つの机より、ひとつの机がいい」・・・直喩にするだけで、散文でも違和感は相当小さくなる。

私たちは、小説は考える事を要求しない、暗喩として表現される時も、小説全体が暗喩であるならば読みやすいが、一部に暗喩が用いられると、物語の筋、あるいは描写にのっかってきた私たちの言語理解は、ストップするように思う。

例えば、言葉の共通の指示性・イデアの強さを段階にして表すと下のようになる。上が強く、下が弱い。
【言葉のイデア(指示性)】
固有名詞
引用
オノマトペ
寓意
アイロニー
抒情
イメージ
曖昧性
暗喩
*項目は『現代詩作マニュアル』(野村喜和夫氏)からピックアップした。

それらが、詩、散文で良く用いられているか示すと次のようになる。
【言葉のイデア(指示性)】
詩・散文

↓  ↓ 固有名詞
↓  ↓ 引用
↓  ↓ オノマトペ
↓  ↓ 寓意
↓  ↓ アイロニー
↓  ↓ 抒情
↓  ↓ イメージ
↓     曖昧性・・・・・一部、そういう散文があるが、特殊である
↓     暗喩・・・・・・なかなか、使われない。

この、曖昧性(読み手に意味の理解を任せるところ)と暗喩(物語あるいは表現の中で、言葉のイデアを、読者に考えてもらうことになる)は、散文では、読み手が受け入れ難いだろうと思う。

よって、私は、詩「壇」と文「壇」の「壇」の存在価値はどうでもよいが、詩と散文の机は別々でいくだろうと思う。それが幸せだろう。暗喩で語る人間と、暗喩を使いたくない、せいぜい直喩までだという人間は別の世界で生きた方が良い詩、読み手も別の方が良いと思う。

荒川洋治氏は、勢いのまま、詩と散文をひとつ机にする、ただし、詩が全体を管理すると考えたのかも知れない。なぜなら、昔はそうだったから、可能性がないわけではない。
しかし、今、考えずに読みたい読み手が増えたので、詩より小説、あるいはエッセイ、フィクションよりノンフィクション、できたらハウツー物、純文学より娯楽小説へ流れて行っているのではないだろうか。その中で、詩を選ぶ読者はごく一部である。五七五での恋文の書き方なら、売れるが、書き手の心の表れを読みたいと云う読者は少ないのである。


Ⅲ.『渡世』に見る詩の形式

ここで、詩の形式について考えたい。多分、「Ⅱ詩と散文の言葉」に書いたように、散文詩と行分け詩での言葉の重みは違う。

詩・散文・小説を同じように扱うべきだ、と言っているように思える荒川洋治氏だが、実際は、行分け詩の言葉が散文詩で使われた場合に比べてどれほど強い印象を読者に与えるかは、良く分かっていると思う。だから、「詩的」な「美しさ」を排除しよとした『渡世』でも、行分けは残した。それどころか、書き下ろしの六篇は行分け詩にした。

『おかのうえの波』に荒川洋治氏はこう書いている。「文章には起承転結という漢詩以来のルールがある。・・・・・リズムもまたこのなかでかんがえられることになる。つまり文章のなかにリズムがある。・・・・・結のリズムは起承ではなく、転のリズムにあわせる。・・・そして、結では、ことばの数を少なくし、センテンスをみじかく、はぎれよく。新たな情報を持ちだしたりしないこと。また意味ではなくリズムによって読み手を納得させるようにつとめれば、ここちよい結びがやってくる。・・・・」

『渡世』は15篇。うち11篇は行分け詩。六篇は書き下ろし。
それらから幾つかの詩編の結を確認してみようと思う。

【【渡世】の行分け詩】
「これからさまざまに至近から人を疑い
組織分裂を繰り返すのだ
狭くて寒く冷たいところだ
雀の毛布をもっていこう」(『雀の毛布』)

「お尻にさわる

佳良な白い
最後の言葉だ
暗闇でしばし男のものとなり
暗闇にきえていく」(『渡世』)

「近くには
自分たちの生まれた家と死ぬ家がある
彼らは早く帰った」(『VのK点』)

【『渡世』の散文詩】
「・・・黒いマジックを胸に立て、高校と想像を出ていった。」(『ほおづき』)

「・・・・その母は娘をぼんやりと抱き寄せ、白いスイウボールの花が咲く自分の庭を眺めながら、帽子ののない顔をゆらし、『人間はよその家で死ぬこともある』と、ただ一日の話をした。」(『赤くなるまで』)

「忘れずに『友人宅』という意味不明の場所を片隅に入れる。」(『最終案内』)

こうしてみると、起承転結の結に心地よさを残そうとするのは、行分け詩で、散文詩でも同じである。

こうして読んで、私は予定外の事を感じてしまった。それは、荒川洋治氏には、『水駅』以来、行分け詩と散文詩の違和感はないのではないか。その代わりに、いつも言いたいこと、語りたいことが明確にあり、それが最終の何行かに凝縮するために、書いているのではないか。そのために、それまでの長い行分けの詩も散文詩も、修辞として、最後の「言いたいことの」前書きになってしまうのではないだろうか、という疑問である。

つまり、⑤作者は言いたいことをもっている、このことが荒川洋治氏にとっては、「書きたい言葉がある」「書きたいイメージがある」のであり、それを詩の最後に、あるいは詩の頭や始まりに書くために、それまでの行を書いているのではないか?という疑問である。

スタートは分かっているが、どこにたどり着くか、どういう言葉で結ぶ(その位置は関係ない)が求めながら、書くというのが一般的な詩を書くと云う行為だと思うが、そのことと形式はどう関係するか、次回は、考えてみたい。荒川洋治氏の作品で考えようと思う。

あと二冊の詩集を読みながら、現代詩文庫をまた読み直して考えてみようと思う。

(2012.12.25)

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