性別違和

性別違和

私の場合、幼少期から強く持続的な性別違和がありました。
幼稚園に入る前に、自分に性器がついていることを疑問に思い周りに聞いてみたりもしていました。幼稚園では男の子が水色のエプロン、女の子がピンクのエプロンをつけて遊びましたが、どうして私はピンクのエプロンを着られないのかと疑問を抱きました。でも水色も好きだったのでまあいいか、とそのままにしたりしていました。 とても絵の上手な男の子がいて、その頃流行っていたポケモンのミュウツーの絵などを見せてくれたりしていたのですが、その子にひそかに好意を抱いたりもしていました。

小学校に入学する時にランドセルを祖父からプレゼントされました。 箱を開くその瞬間まで、赤いランドセルが入っているという奇跡を期待していたのですが、その期待はもろくも崩れさり、黒いランドセルが目の前に現れました。 そのときの落胆は大きかったですし、思えばその時に「自分は男子である」ということを強く思い知らされました。 

1年生になり、学校のトイレは男女がはっきりと分かれていました。私はしばらく逡巡しましたが、「男の子なんだ」と思い知らされた後だったのであきらめの気持ちとともに男子便所を使っていました。 友達は男女ともにいましたが、どちらかというと女子の方が多かったように思います。

小学校2年生になる時に大阪から東京へ、父の転勤で引っ越してきました。 東京の小学校は大阪よりものどかな感じがなく、都会的な冷たい感じがしました。そして男女ではっきりと友達付き合いが分かれていました。 大阪の小学校では男女区別なくみな仲良くしていたのに、これは大きなカルチャーショックでしたし、女の子と遊ぶことが出来なくなってしまい、悲しかったです。 見た目が女の子っぽいところがあったことや、とてもおとなしかったことからいじめられたりもしました。そんななかでだんだんと男の子らしく振る舞い、遊ぶことを身につけていきました。 それでも、自分は「男の子」ではないんだという思いは消えることはありませんでした。

小学校高学年になると、第二次性徴が始まる子もだんだんと出始めてきます。 保健の授業で男と女の身体の違いを習ったりもします。それでもまだ私は、いずれ私のこの男性器は自然と外れて、下から女性器があらわれるのだ、胸も自然と大きくなっていき、初潮も始まって、家族や学校の先生、友達など周りも、この子は本当は「女の子」だったのだ、と気付くのだろうということを信じていました。 今考えると笑ってしまうようなことですが、当時は真剣でした。

それが絶望に変わったのは、声変わりが始まったときでした(最悪なことに、クラスで1番早かった…)。 それは本当に最悪の経験でした。音楽の授業で、今まで出ていた高いきれいな歌声が、突然出なくなってしまったのです。そして歌えないとわかると先生は私だけをうしろに座らせて、見学させました。今まで大好きだった歌うことが、嫌いになりました。声を出すことが嫌になり、口数も極端に減りました。声をまったく出さない時期もありました。
その後、女子だけが保健室に呼ばれて別の授業を受けた時にも、私は女子ではないんだ、と強く思い知らされました。

中学に進む頃にはもうはっきりと男子と女子の身体は違ってきていました。私はそんな女子の姿を見ているのが耐えられないと思い、男子校に進みました。目の前に自分が思い描いていた姿になっていく「女子」と、こんな風になるはずがないと思っていた「男子」の姿の両方を見せつけられるのは耐えきれませんでした。

男子校では努めて「男の子」っぽく振る舞おうとしたりもしましたが、「男の子」の行動の不可解さや幼稚さにあきれたりもしました。 ただ、1年としないうちにこのことも含めたストレスが引き金になったと思うのですが、解離性転換性障害という精神疾患を発病し、ひどいうつ状態や被害妄想、強迫観念や強い自殺願望といった精神的恐慌状態に陥り、学校にはほとんど通えなくなりました。
またこの頃に通学中の満員電車内で何度も痴漢にあい、パニックや過呼吸を起こして保健室に飛び込んだこともありました。

この頃は、自分の身体の性への違和感の強さに、自殺するか、手術を受けるかの二択しかないと強く思い詰めていました。 お風呂に入るのもトイレに行くのも、自分の身体を目にしなければならないという苦痛に苛まれながら日々を過ごしていました。その頃の記憶は今でもぼんやりとしかありません。 その状態は精神科で本格的に治療を受け始めた高校3年生まで続き、出席日数が足りなかったために高校を一年留年しています。

高校生の時には、中学の頃よりは性別違和がすこしだけ軽くなっていたこともあり、男子校にいて大学への推薦をもらおうというのだから、男子の格好をしているのは義務なんだと思うようにして、ひたすら我慢していました。

性別への違和感があることは、親にはもちろん友達にも相談できませんでした。誰にもわかってもらえるとは思えませんでした。中学生の時にスクールカウンセラーに相談した際には、それは時間とともに消えていくもので、割と多くの人にあることだ、というようなことを言われました。確かに中学生の頃よりはほんのすこしだけ軽くはなったけど、なくなりはしませんでした。
また、隣のクラスに GID、MtF の生徒が一人いました。彼女は在学トランスをしていて、髪を伸ばし、薄く化粧をして、学ランを着ないで学校に来ていました。カミングアウトもしていて、その勇気がただひたすらまぶしかった。それに、とてもきれいな人でした。

高校4年目の修学旅行で2回留年していて個人的にもよく知っていた知り合いの先輩からレイプ未遂を受けました。このことは痴漢よりもさらに強い男性不信と男性恐怖を私に植え付けることになりました。今でも男性のいる部屋に同室で寝ることには強い抵抗感があります。それがたとえ親であっても、よく知っていて、客観的に見て信頼できるはずの人でも、怖くてたまりません。また、自分が男性であることも前よりもさらに強く、別の意味で嫌でたまらなくなりました。父親からレイプされる夢を何度も見たりもしました。もしかしたら本当だったのかもしれませんが、それが現実かどうか確かめる気はありませんし、確かめたくもない。吐き気がするほど現実的な夢でした。

大学生になる時には、入学時に撮った写真は卒業まで学生証に使われるということを聞いて、就職活動のときなどに不利になるようなことがあったら困るだろうと考えて、伸ばそうとしていた髪をばっさりと切り落として写真撮影に臨みました。 そして、もう「男子」として生きていくんだ。この身体に手を加えることはしないで、このままの性別で生きていくんだ、と決意しました。それでも身体への違和感はなくなりませんでした。自分は「男子」というシスジェンダーだということには強い違和感がありました。

そして、病状不安定のため就活、就職はできない旨を大学に進学してから医師から宣告されました。学部を選ぶ際には就職に少しでも有利になればと思い、興味のあった文学部ではなくまったく興味のなかった経済学部を選んだのにも関わらず。

去年、5年かかってようやく大学を卒業し、興味のあった文学部の通信課程に学士入学しました。通信課程にしたのは、自分の病状ではとてももう一度通学過程をこなすことはできないと思ったからです。でも、通信課程の課題も教科書も非常に難しく、うつ状態で集中力が極端に低下している私には到底こなせるようなものではなく、ほとんど全く手が付けられていないような状況です。
今は、大学2年時から入っている早稲田短歌会というサークルに所属し、体調がいい時には毎週開かれる歌会(短歌の批評会)や勉強会に参加したりしています。

大学生活は「男性」として送りましたが、それは解離性転換性障害というハンデのある自分が先生方に出席などの配慮をしてもらうにあたり、これ以上ハンデがあるのは非常に不利だと考えたからです。また友人たちからノートや過去問、情報などをもらうにあたって、サークル(能の観世会、SF研究会など)の先輩後輩や友人たちに「普通に」接してもらうためには必要なことだと思ったからです。

また、自分には前述の隣のクラスの MtF のように美しくはなれないという思いも、そして、そんなみっともない、汚い状態になるくらいなら「男性」としてストレスを抱え込んだほうがまだましだと思ったからです。もしそのようなみっともない、汚い、他人から受け入れられないような状態になってしまったら、私に残された道は自殺する以外にあり得ません。このことも、3度自殺未遂をして生きながらえてしまった私に、大学に入って一番初めにできた友人に自殺されて非常に強いショックを受けてしまった私に、死ぬことが選択肢として選び得なくなってしまった私に、生きることを、すなわち「男性」として生きるということを強いてきました。

しかし、「男性」でいることの、「男性」としてふるまうことの絶望的なまでのストレスに耐えられなくなり、またストレスが原因とされる解離性転換性障害の病状も一向に改善せず、杏林大学病院の主治医の治療も効果をなさず、また性別違和のストレスを訴えても「私には専門外だから専門の医者に行ってくれ」とにべもなく突き放される中、私にはこのジェンダークリニックに来るしか残された選択肢はありませんでした。



(5年前の文章です)

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