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人が亡くなって思うこと。

どうも。お久しぶりです。
身長が最近ちょっとだけ伸びました、まつもとです。

育ての親とも言える、大好きなおばあちゃんが秋に急に亡くなって、心にぽかんと穴が空いたまま、ここ最近過ごしてました。今の気持ちを整理がてら、書いてみます。

今日はおばあちゃんの四十九日だった。まだおばあちゃんが亡くなった実感はない。亡くなったことを思うとただただ涙が出てくる。別に後悔がある訳ではない。もちろん、ブリ大根の作り方を教えてもらっとけばよかったな、とか話したいことはまだまだたくさんあったけど。ただ、この世からいなくなってしまったこと。存在がいない、ということが無性に悲しい。

母が病気がちで、何度も死にそうになる山場を越えてきた。その時には、いつもおばあちゃんが側にいて、一緒に涙を流し、抱きしめ合いながら乗り越えた。母が元気になってからも、おばあちゃんと会って別れる時には、いつからか必ずハグをするようになっていた。女性の割に体が大きく、ある程度肉付きがある、安心感のある身体。あの安心感を感じることはもうできない。ひざの上で寝たり、頭をなでてもらったりすることももうできない。名前を呼んでもらうこともない。当たり前に目の前にある現実に、人が死ぬということはそういうことだ、と頭ではわかっているのに、とてつもなく悲しい。

何故だかわからないけど、今年に入ってから、おばあちゃんと両親が一緒に住む実家に、定期的に帰らなきゃ、という想いが強くなった。おばあちゃんの誕生日を一緒に祝うことはもちろん、おばあちゃんが買ってくれた8段飾りの立派なひな人形を10年ぶりくらいに出して、みんなで集まった。これまた10年ぶりくらいに、箱根の花火大会にも行ったし、亡くなる1か月前には、私の新居に来てもらった。なんとなく、感謝の想いを伝えておかなきゃと思い、手紙を渡したりもした。今となっては、すべてが最後の思い出づくりになってしまったけど。私はどこかでおばあちゃんの死が近いことを感じていたのかもしれない。不思議だけど、私の仕事が比較的落ち着いたタイミングで亡くなったのは、おばあちゃんが気を遣ってくれたからじゃないか、とさえ思えてくる。

おばあちゃんは、母が病気がちなのは自分のせいだ、と良く私に言った。母が危篤になる度に代われるなら代わりたい、と言った。死にゆく順番は守られるべきだ、とも言った。母は毎回奇跡的に生き延び、結果おばあちゃんが先にこの世を去った。大動脈解離で出先で倒れたおばあちゃん。病院に運ばれている最中に亡くなってしまう方も多い病気だが、私が病院に駆けつけた時に、おばあちゃんは奇跡的に意識があった。亡くなる前に話すことができた。87歳のおばあちゃんは、ベッドに横たわりながら、100歳まで生きたい訳じゃないんだよね、と私に言った。ただ、私がまだ恩返しできてないし、生きててもらわなきゃ困る、と言うと、じゃあ生きなきゃいけないね、とも言った。これだけ喋れるし、このまま母と同じように奇跡的に生き延びてくれる、と思ったら、4日後に亡くなった。奇跡は起きなかった。母が元気になる度に、まだ使命が残っているから死ねないんだ、という話を3人でしてたけど、おばあちゃんは使命を全うした。寿命がきた、ということなのだろう。

大人になってから、身近な人の死を経験していなかった私。自分の親と同じくらい一緒に過ごし、育ててもらったおばあちゃんがいなくなったショックは大きい。私が小さい時に、おじいちゃんが亡くなった時、母が1年くらい泣いて過ごす意味がわからなかったけど、今ならわかる。この喪失感。何が悲しいんだろう。何に泣いているんだろう。急すぎたからかな。覚悟ができてなかったからかな。やっぱり、あのぬくもりを、無償の愛を、感じることができない悲しさかなあ。

あたり前だけど、おばあちゃんが亡くなったことで、人はいつかは死ぬんだ、ということを実感した。と同時に、考えてしまう。自分でへその緒を巻き、仮死状態になり、それでもこの世に生まれた自分の命の意味とは。おばあちゃんのお母さんである、ひいおばあちゃんと同じ誕生日に生まれた自分とは何なのか。自分が産まれ、今生きている意味や意義とは何か、そして当たり前だけど、自分の人生も後残り50年くらいなのか、という考えが、頭をめぐる。私は代々受け継がれてきた命のバトンを受け取り、この世に何か残せることがあるんだろうか。

まだ心の整理がついた訳じゃない。ふとした瞬間に思い出し、悲しくなる。ただ、この悲しみが消えてしまうことが、それはそれで怖い。
でも、泣くことがおばあちゃんの死の弔いになる訳じゃない。だから、これからも、思い続ける。それしかないんだと思う。そして、私は生きなければならない。強く。まっすぐ。この命がある限り。

おばあちゃん、ほんとにほんとにありがとう。

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