わかりあうことの限界。

2年ぶりくらいにチャリに乗ったまつもとです。酔っ払ったまま少しでも遠くに行きたいと思って閉店間際の自転車屋に行き、ギアなしのママチャリを買った2年前。買った頃は乗っていたけど、いつの間にか乗らなくなって駐輪場で眠ってた。たまに盗まれてないかな、だけは横目で見ていたけども、ね。最近時間があれば歩くようにしているけど、それこそもう少し遠くに行きたくなって、チャリの存在を思い出した。久しぶりの再会を果たしたチャリのタイヤの空気はまったくなく、サドルも埃だらけだった。タオルを水に濡らししっかりふいて、近くの自転車屋さんで100円で空気を入れてもらう。空気にも値段がつく。いや、ごめん、嘘、おじさんの手間賃だね、ありがとう。

春の匂いがする最近。今年も花粉を感じる。まだスギ花粉に勝てる日は遠い。向かった先はちょっと遠くにある映画館。チャリの乗り方は忘れてなかった。ショッピングモールの中にあるその映画館には高校生やら若い子がいっぱい。30歳間近の私がそこに居るのはちょっと恥ずかしかった。

坂本裕二さんの作品が好きで、とかいうのは後付けで、なんか純粋な恋愛映画を見てなんとなく泣きたいなーと思って映画館に行った。月に1回は映画を観る、をここ数年、1年の目標の中に入れているのに、考えたら1年半ぶりくらいの映画だ。当時とても気が合う男の子と一緒に観た、あの日が最後か。割と夜遅くまで仕事して、レイトショーで映画をみて餃子食べて帰って寝る。そんなありふれた日常を共にできる友人ができて幸せ、と思っていたけど、そんな彼とは音信不通になった。あの日はありふれてる1日なんかじゃなかった。友達って都合のいい言葉。

チャリを漕ぎ、映画館にきた私はひとり。3分後に始まる映画の席はほぼ満席で1番前の席しか空いてなかった。席に座ると、自分の右隣りに高校生っぽい女の子2人。左側には男子高校生が8人くらいいた。部活仲間で来てるんかな。みんな坊主。角刈り。そんな青春ド真ん中に挟まれた、泣くために映画観に来た28歳独身女性。どう見ても私だけ大人だった。

映画はとても切なかった。自分の好きなことで仕事をすることを諦める主人公に自分が重なって泣けたりもした。何者かになりたかった、でも何者でもない自分しかそこに居なかった。ラブシーンで、隣の男の子たちがみんなで目配せしてソワソワする感じを見て、この子達は今から、人と愛し合ったり、傷ついたり、大人になっていく。”未経験”が溢れてるなあと思った。もちろん私だってまだまだ未経験なことが多いけど、高校生にも大学生にも戻れない。新入社員にだって戻れない。名刺をもらった時のあの嬉しさを当時の自分と同じ温度で感じることはもうできないんだろう。

そして私もしておけばよかったよ。大学の授業行かず、ただただ愛し合って、生活が彼一色になる、みたいなやつ。大学の夏休みとか最高じゃんか。

作品の中の恋人の2人は、環境の変化で想いがすれ違っていった。何か大きい事件は起きる訳じゃない。でも確実に環境や年齢は人を変える。価値観も大事にするものも、時間の割き方も。それは必然で不可避。

お互い、こんなにわかり合える人はいない。似ている人はいない。運命の人だと思っても、わかり合うことにも限界がある。すごく当たり前のことだけど、どんなにわかり合える2人でも、ずっと同じ気持ちで同じ方向を見て過ごしていくことはとてもとてもとても難しい。その事実を突きつけられた気がして、映画を観た後2日間くらい、胸が苦しくなった。失恋したわけでもないし、なんでもないけど、なんでだろう。自分でも永遠なんてないってわかっているのに、それでも、変わらない想いが、関係があると思いたい気持ちとの葛藤だったのかな。

と、書いているこの気持ちも紛れもなくナマモノで、そして私が感じる全てを言葉にすることにも限界がありもどかしい。そして自分もまた、紛れもなく、凡人で何者でもないことも事実として存在している。私の放つ言葉の持つ力は小さい。ただ、それでいい。とにかく、文字にしなければ、と思った衝動はそれはそれでホンモノだ。

以上、まる。

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