学校の授業、勉強、学歴に価値はあるのか

中卒にして高給取りとなった俺が、主に同世代の人間によくされる質問の一つ。
こういった質問をしてくる20代から、もっと若ければ10代の人間は、まだパンクの心を持っている。
学校という、国、世界の作ったシステムを否定したい。
大人から受けた抑圧や綺麗事、世間の流れ、当たり前だと皆が思う事をぶっ壊したい。
そんなハードコアな精神を強く感じる。かくいう俺もまだパンクの心を失ってはいない。だが、何もかもを否定するだけでは、その先にピースはない。
寄り添う事で初めて見えてくる答えがある。

この質問に対し、あるかないかで答えろと言うのであれば、価値はあるとしか言いようがない。
学歴を持っている、勉強をしっかりしてきた人間ほど価値はないと言う風潮にあるが、逆に勉強を全くしてこなかった俺には、価値があると感じざるを得ない。

先に言っておくが、その答えは論点のすり替えや、哲学的な話からくるものでは断じてない。
この質問の行間を読むのなら「ある程度の大金を稼ぐ上で、学校の勉強や学歴に価値(意味)はあるのか」という意味だと分かった上で、あると俺は答える。
そしてその理由について、しっかり納得してもらえるよう努めて説明しようと思う。

一つ謝らなければいけない事があるとすれば、俺の真意である答えは、もう少し曖昧な所にある。
価値があるかないかで答えるなら、あると答えるしかなかったからだ。

まず俺がどう社会的に、有難い事に一部の人からは成功者だと言われる立場になったのか。
あるいは日本においては殆ど最低学歴の俺が、今現在に至るまでは同世代の平均収入を大幅に上回る事が出来たのか。
それについては「結果的にそうなった」という表現が最も芯を捉えているだろう。

俺は成功へのビジョンをしっかり見据えた上で高校を中退し、成功までの最短ルートを着実に歩み、周りを出し抜いて最小限の努力と時間で成功者となり得た。そんな事実はない。
面倒くさい事から目を背け、ダラダラ好きなことをやり、後々に危機感を覚え、先ではなく今だけを見て必死にやってきた結果、たまたま成功していた。ガッカリするかもしれないが、それだけだ。

しかしその上で、前述した意見に矛盾するように見えるかもしれないが、今の俺の記憶を持ったまま、新しく人生をやり直せるとしよう。
もしそんな事が出来ればだが、その時は競馬や株価、仮想通貨の先読みなどの、未来を知る者としてのズルは一切しないと約束する。
その上で、俺は今よりも低い学歴で、今回よりもずっと楽に成功出来るだろうと断言する。
それは何故か。無論、一度中卒で成功しているからに他ならない。
成功する道を知っている者は成功出来る。たったそれだけの簡単な話だ。

しかし、今現在学業を生業とする若者は、社会で成功する方法、更には正攻法ではない、その裏道を知っているのだろうか?
多くの場合、知っていない。そして、それがこの議題において最も大きなファクターとなる。

大胆だが、ここで簡単に結論を出してしまうのなら、
成功の仕方を知らない人間が、成功するかどうかは、博打にしかなり得ない。
なので、確率が高い学歴を取る事の方に価値がある。
という事になる。事実、それが俺の言いたい事の全てだ。

しかし、それでは当たり前のことを言っているだけで面白みに欠ける。いや、それを当たり前だと思えるのならそんな質問はするなという話でもあるが、この質問をする人達は、その当たり前を、成功者の普通とは違う見方で打ち砕いて欲しいという想いがあるのかもしれない。
その需要を分かった上で、俺はこれでしかないと思えてしまう。
なので、与えられなかった供給の代わりに、もう少し結論を掘り下げてみようと思う。

反論を想像して答える。
まず、上記の理論が正しければ、親や知り合いがその所謂成功への道を子供に教えればいいのではないか。という点だ。

前提として子供は、その道を知らないものである。
では、それを子供に教えるとは、子供から見てどういう事になるのか考えてほしい。
そう、それは紛れもなく「勉強」となる。

成功する為の道を経験した人ならば、様々なアクシデントやイベントに、臨機応変に対応出来るかもしれない。
しかし、その経験を持たない子供にとって、そんな対応を含めて全て、あるいは充分だろうというレベルまで、その道を教える事は可能なのか。
それは可能であるが、親や知り合いがその時間を割くことは簡単ではないし、子供にとって実感の湧かないそれらを習得する事もまた簡単ではない。
その上でそれらをする意味があるのだろうか?

わざわざ敷かれたレールから外れるだけでなく、面倒な勉強や諸々から解放されるという、メリットすら捨てた上で、わざわざ"中卒で成功"する事に何の意味があると言うのだ。
はっきり言うが、ステータスの上では中卒で成功より、高学歴で成功の方がよっぽど価値がある。
つまり、それは合理的な道ではない。

次に、中卒で成功を語る上で避けて通れない"コネクション"について。
学校に通わずに、社交場にて交流を図り、コネを増やすことで簡単に成功への道を拓ける。
という意見を多く耳にする。あながち間違ってはいないと感じる。

しかし、それには大前提に、コミュニケーション能力の有無がある。
コミュニケーション能力を、ある程度先天的に持っている人間じゃない限り、その道は選べない。
しかし大目に見て、持っているものだとして考えてみよう。

先に結論を出せば、やはりこれも合理的ではないと答えることになる。
何故なら、学校でしか得られないコネを捨てるほどの価値があるとは思えないからだ。
高学歴の強力な武器の一つはコネだ。
例えば、東大生同士の友達が沢山いる人は、成功への道がほぼ確約されてるとすら思う。
逆にアホな大学だとしても、社会に出た上での限られた出会いに比べて、学校は最も出会いに恵まれたステージと言える。
コネクションという点において、無論学区外の出会いでしか得られない種類もあるが、学生とコネクションの質量で比べる事に、中卒派は意味を見出せない。

この二つを語った事で、中卒で成功する事の大きなメリットを挙げる必要性を感じたので、少し考えてみた。
一つは「楽」である事。勿論、よく分からずに半ば強制される学校生活を「苦」とした時の反証だ。中卒で成功する事が楽なんて誰もが思わないだろうが、学校生活を一つの苦とした時には、確かに成り立つ。
一つは「自由」である事。これは想像に容易い。学校とは自由と対極にある「規律」や「強制」の象徴とさえ思える。
最後の一つは「挑戦的」である事。これをメリットと呼んでいいかは悩ましい所だが、敷かれたレールから自ら逸脱した上で、成功を修めることは、挑戦的かつ、反抗的なものに思える。

では、これらのメリットを損なわずに、皆が平等に、通常通り学業を修めた時と同程度の確率で、成功する手段はあるのだろうか。
ないだろう。結局、中卒で成功しようとする事は博打でしかないのだ。

価値についても少し掘り下げてみよう。
今まで語った事では、学歴の価値については言及したが、勉強そのものの価値について触れていない。
この勉強は勿論、通常学校で習う「授業」の勉強と思ってくれていい。
国語、数学、科学、歴史などの勉強についてだ。

はっきり言って、これらの勉強の価値については、俺もあまり分からない。
社会に出て様々な職種がある中で、一般的な授業で習う勉強は、かなり専門的な部分に偏っているように感じる。
なので、冒頭で言ったように、ここで違う意見に寄り添うという事をしてみよう。

自分は学校勉強の肯定派だとイメージしてみる。
学校勉強を強いる側の人間だとイメージする。
そうすると、見えてくるものがあった。

まず、学校に通う事、敷かれたレールの上を歩く事の最も大きなメリットは、選択肢が増える事だ。
大袈裟だが、ただただ勉強を頑張れば、就活間近まで進路先を真面目に考えなくたって何とかなる。
結果的に就活もせず、全く学歴や経験と関係のない場所で縁があったとしても、それも数ある選択肢の中から選んだものだ。
逆に言えば、計算の上でレールから外れるなら、進路はかなり早い段階で決める必要がある。
ただ、早まらないでほしい。最も重要な事として、若さとは間違える事を包含している。
大人になった時、間違ってなかったと思える進路を決められる若者なんて、ほんの一握りしかいない。
そしてそれを自分だと思う事は、とてつもなく危険な事だ。
せめて大学卒業までしっかり悩む事が、一番無難な選択肢である。無難を取ることは賢さの証だ。

では、数ある職種の中で、ほぼ0の知識から最も勉強する必要のある職種は何だろう。
これについては、具体的な物を挙げるのは控えるが、やはり学校の授業で習うような物を扱う仕事ではないだろうか。
特に想像しやすいものとして、数学や科学などを濃く扱う仕事においては、習った事がなければ相当厳しく感じる。

そして、人類、文化の進化を考えた上で、最も先へ先へと行く必要のある分野は、やはり現在の学業がものを言う研究などによってもたらされる物に思える。

つまり、効率良く選択肢を増やす為、そして国の進歩の為に、これらの勉強には価値があるものだと考えられる。

個人としてはどうだろうか。今現在社会人として、普通の企業へ就職した人にとっては、やはり価値のあるものではなかったとも思う。
しかし、それは結果論に過ぎない。
目標を達成する上で、到達した時点では必要のなくなる勉強や経験をするなんて事は、結局のところ学業だけに言える話ではない。幅広い事柄で強いられる事だ。
そして、そのプロセスが必要だった事については否定のしようがない。
それを取り上げて、価値のないものだと言えるのだろうか。
そんな事は断じてない。それによって手に入れたものがあるのなら、それは確かに価値のあるものだろう。

しかし、それらによって何も手に入れられなかった者も存在する。
悲しいことではある。だが、それは学校や勉強に価値がなかったからではない。本人が価値あるものを無駄にしただけだ。

さて、俺はこれで必要な事から不必要な事まで、十分語り終えたと思う。
なにぶん、短時間で勢いに任せて書き上げたものなので、何か重要な事を見落としている可能性も大いにあるが、自分が満足しているので考えない事にする。

語り終えた上で一応触れるが、敢えて今まで成功の定義については言及はしなかった。余程捻くれていなければ、それは個人ずつが思う社会的成功を当てはめて差し支えないだろう。

以上を踏まえて、大人の皆は、過去の勉強に価値がなかったと嘆く必要はない。無駄な時間だったと憤慨する必要もない。
そして学生諸君は、今自分がしている勉学には価値があると再度認識し、誇らしくなお励むと良い。
そして、もし普通以上に成功したいと思うなら、学校生活の中でも思考と行動を止めないことだ。
今の内から出来る事も、数えきれないほどある。

また、行間を読んだ為に語らなかったが、学校生活には、成功だの就職だのを抜きにして考えても、他の何にも変えられないほどの価値が沢山ある。
いずれにしても、価値あるものを活かすか殺すかは自分次第だが。