100円玉のおこづかい
マンスリーのカレンダーをめくるとき、1・8・15・22・29の行がどこにあるかいつも真っ先に探してしまう。
誕生日が15日だから。
……ではなく、その行の色が赤ではないことを確かめるために。
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うちは貧乏だからね、無駄遣いはできないのよ。
母はよくそう言っていた。
しがない地方公務員の一人働き世帯。家のローンもまだまだある。
最もな理由もあり納得していた。スーパーでもトイザらスでも駄々をこねた記憶はないし、半額だとかクーポンだとか無料キャンペーンだとかが大好き家族になっていた。
中学生までおこづかいは月500円だった。
服や文房具など必需品は買ってくれた(親のお眼鏡に適うものなら)。
周りには用途を言わないとびた一文くれない、という友達もいたので、年6,000円はまあまあ良い額かもしれない。そう言い聞かせた。
おこづかいは500円玉ではなく必ず全て100円玉で渡された。
「毎週の礼拝で献金箱に1枚の100円玉を入れられるように」
つまりおこづかいなんてあって無いようなものだった。
月に4回日曜日があれば、手元に残るのは100円。
5回なら0だ。
実質年に700円程度のおこづかい。
これでは何も買えない。
でも親にとってはあくまで 自 由 に 使 え る お 金 として年6,000円渡しているつもりらしかった。
月100円捧げるのよと指導した上で、私が献金箱にいくら入れるのか毎週監視しておいて。
そして家にはお金がない。
用途を言ってお金をせびるなんてできない。
車好きの父親が数年おきに車をアップデートしていても、ローンの返済がいつの間にか終わっていても、そして熱心で敬虔な信徒である両親が律儀に給料の十分の一+α献金していても(そうしろと聖書に書いてある)、
なぜか疑問に思うこともなくオカネガナイと刷り込まれたまま生きていた。
プリクラ一回の値段が400円。4人で割り勘して100円だとしても、数台回ればあっという間に年収の半分吹っ飛ぶ。断った。
水上公園の鯉のエサも、ゲームセンターでも、ケチった。友達のを見てたり、おこぼれに預かったり。
みんながぽんぽん5個ずつぐらいカラフルなお菓子をカゴに入れる中、5円チョコと10円のポテチだけ買ったら駄菓子屋のおばちゃんにこれでいいの??と心配された。
服は教会員のおさがりか激安の古着。小学生のときはそれが原因でいじめられたっけ。そんな服どこで買ったの?と言われてもしどろもどろになるしかできなくて、余計ターゲットになったなあ。
みじめだった。正直。
でも貧乏だから。
仕方のないことだから。
だから、神様お願い。
お金がなくても笑って過ごせる教室をください。
それがだめなら、いつか私と家族がせめて普通に過ごせるくらいのお金をください。
そう心で唱えながら、今週も献金箱に100円玉を入れる。
何かおかしい。そんなことを少しでも思ってしまえば神に見透かされ願いは叶わないような気がして、
もう何も考えないことにした。
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後に大学で経済学を専攻する私なのだったが、
そこでやっと対価を正しく支払うという価値観を全く教えられてこなかったことにゆっくりと気づいてしまった。危うく非常識な大人になるところだった。
それからコストという概念に触れ、献金は税、私の小学生時代のお小遣いは無駄遣いというコストに分類されていたんだろうなと冷静に分析してみた。
冷静?はあ???学者ぶってんじゃねーーーよ!!!とダサい服着た小学生時代の私が泣き叫んでいるので、
相変わらずダサい服着ながら深く深くため息を吐いて逃がした。
そうして何も考えない自分を卒業したのだった。
小学生の私、生きててくれてありがとう。
大学生の私、学んでくれてありがとう。
社会人の私が小洒落た古着の並ぶクローゼットで笑って過ごす未来を買ったこと、どうか知ってください。
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