呪文

「note読んだよ。」という呪文を、今後私に面と向かって唱える人は、私の未来の一切合切に責任を持ってほしい。

この一文を怖いと思う人、面白いと思う人、それぞれいるだろう。
前者ならこの先決して読まないことをおすすめする。もっと得体の知れない世界が広がっているから。
後者なら、気の進むところまでぜひ読み進めてみてほしい。
もっと得体の知れない世界が広がっているから。

感情表現が苦手だ。
自分の本心を表そうものなら瞬時に壊れるものがいつもそこにあった。下手したら人が死んだ。

だから感情だとか、心の奥底、何を考えているか、
そういうものは隠すものなのだ。それが当たり前なのだ。
代わりに何が表にあるのかというと、「そこにあると喜ばれるであろうもの」。
聞こえの良い言葉に、当り障りのない選択、笑顔、正しさ。
それが私の服だった。鎧だとか鱗といった堅苦しいものではない。とにかく当たり前すぎて苦しさなど感じる暇もないものだ。
おかげで大人にウケる変にピンポイントな文章力が身についた。ミドルエイジがターゲットの弊社のホームページには今、私が製造した薄っぺらい言葉たちがぎっしり並んでいる。

受け入れられることは100%ないこの本心。
心とは、正しくなくて汚くて、表にあるべきではないもの。
そういう常識が私の中で出来上がった。

みんなそうだと思っていた。

ところがどっこい、一歩外に出てみると世の中には感情がありふれていた。
なんてことない生活の中に、豊かに感情があるのだ。
綺麗汚いに関わらず、どうやら感情が受け入れられることに何の疑問も感じていない人が大多数であるようだ。

(……と、いうことに最近気がついた。
私がTwitterに感じていた違和感は多分それだ。
"愚痴を言わないとやってられない"
"いいじゃんTwitterなんだから思ったことバンバン言って、嫌ならミュートして"
"ブスすぎてつらい"
"自信ない"
"家族しんどい"
公共の場でわざわざ自分のネガティブな感情を言語化して晒すことに抵抗がない。僻もうが妬もうが、自分が感じたことは全部正しい。正しいから言う。そういう「当たり前」が彼らの中にあるらしい。)

幸せだなあと思う。
無自覚にそれを当たり前と思えることが幸せだ。恵まれた環境で育った人だろうなあ。

本人たちに自覚はないだろうが、そういう人は魅力的だ。実際にブスすぎつらいとつぶやくあの子には大抵恋人がいた。
感情豊かな正直な人を人は好きになるのだ。

真似してみた。が、上手くいかない。
当然だ。心を隠すのが当たり前だった私が、いきなり心を表に出そうとしても、不馴れすぎてイビツになってしまう。どヘタクソなのだ。

そろそろ生きるために上手に感情表現ができるようにならねばならなくなってきた。なるが渋滞してるね。
だからこのnoteはリハビリだ。Twitterじゃとてもじゃないけど言えないことを(ここだって公共の場だけど、よほど私に興味のある人かツイ廃か暇人しか覗かないだろうという勝手な前提のもと)、ちょっとずつ、ちょっとずつ。吐き出していけたらいいなと思う。

そうして毒が大方解せたとき、やっと人生が始まる気がする。

「note読んだよ。」という呪文を、今後私に面と向かって唱える人は、私の未来の一切合切に責任を持ってほしい。
そこから始まる話は、生まれたての子鹿のように弱っちい、まだほとんど日に当たったことがない私の心をもみくちゃにして人生を変えてしまうだろうから。
親友とか彼氏とかそういうペラい言葉で表せるような関係になることを責任と呼んでいるわけではない。ただ、私の心臓の一部になることを覚えていてほしい。

私もあなたの人生に責任持ちます。
そのときは、一緒に心の見せあいっこしましょう。

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