アートに逃避行

アートは大切なコミュニケーションツールであるように思う。

態度や言葉で感情が表せない私にとってはなおさらであった。紙の上で、鍵盤の上で、歌声で、私の心ははじめて具現した。私はアートの中でだけ生きていたのかもしれない。

しかし生きるためにアートをしていたかというとそうではない。
そもそもアートが全力で大好きだった中高生時代、心を表すためにアートをしているという感覚は皆無であった。むしろその逆、没頭し、無になり、自分ではなくなることに悦を感じた。
現実逃避である。生きないためにアートをしていたのだ。

なのにピアノの先生にはレッスン初日(小一)から
「あなたは感情乗せるのが上手いのねえ。なかなかいないのよ。」と言われ困惑した。
おかしいな。そんなつもりはないんだけど。
もしかしたら目の前のばかでかい黒い箱は私の化けの皮を剥がす機械なのかもしれない。

友達にピアノを聞かせると、

いつもと全然違うね、
何か乗り移ったみたい、
化けてる、
などとよく言われた。

確かにピアノを前にした私はいつも暴れ狂っていた。特に10代。理性が飛びガンガン鍵盤を叩きつける不敬なロックスタイルが私の定番だ。指とか肘とかかかととか、よくわからないところにいつもアザがあったし、実家の電子ピアノは壊れて出ない音がいくつかあった。

鍵盤に入力したパワーは即座に音になって耳に、空気に、出力される。パワーを注げば注ぐほど音は大きくなる。
気持ちよかった。

友達が言うように何かに化けていた、何かが憑依していたというのも一つの正解なのかもしれない。ただ私は意図的に何かを憑依させているつもりはまったくなかった。
演じる隙はどこにもない。生の感情がそのまま鍵盤に出力されていた。

あの頃の私は、本当は何を伝えたかったんだろう。

何も考えていなかったのに感情が流れ出るということは、それだけ「言えない感情」で心がいっぱいいっぱいだったのだろう。

そういう意味では、自分では生きないためと思っていたアートも、存外生きるために無意識で好きだったのかもしれない。

そしてやはり、逃避行だけではなかったはずだ。

だってピアノは自分の意思で弾いていなかった。
宗教に仕えるため、習わされているものだった。
歌だってそうだ。

逃げたいのならその手段に音楽は選ばない。

……そんな合理的な話ではないのが現実で。
ピアノから逃げられないと悟っていたからこそ、従順なフリして上手く感情を逃がしていたんだろうし、
音楽に宗教以外の意味付けをしたかったのだとも思う。
まあ理由なんていくらでも後付けできる。
筋の通らない話だとしても、音楽、大好きだった。絵も。書道も。下手くそだけど、ダンスも。

音楽は突き詰めれば突き詰めるほど、自分のルーツが讃美歌なのを思い知らされてつらいから今は嗜む程度にとどまっている。
ルーツなんて掻き消えるぐらい大量の世界中の音楽を摂取してみたい。いつかその語彙、もとい楽彙をふんだんに詰め込んで曲を書き、丁寧に感情を乗せて誰かと会話したい。

そんな隠居生活をふふと目論んだ脳内をフリック入力して、noteに逃避行する日々です。

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