シンプルイズザワースト
いい人が集まるからといってそこがいい場所であるとは限らない、とは私の人生の中でも大きな教訓の一つだ。
いい人の集団って狂気的だ。
いい人は正しいものが好きだ。だからいい人の集まる場所には正しいものがたくさんある。
いい人はきれいなものが好きだ。だからいい人の集まる場所にはきれいなものがたくさんある。
そうして身を取り囲む正しいものときれいなものは、言葉の浄水器になる。彼らの口からは、それはそれはきれいな綺麗事が溢れる。
それから、正しいときれいが同義語になる。正しいものは美しいし、美しいものは必ず正しいと思ってしまう。
いい人だって価値観は十人十色だから、知らぬ間にタダシイの感性が合ういい人たちが集まっていきそれぞれ違ったグループを成す。
そこで終わればいいものを。
なぜだかその次のフェーズにあるのはタダシイの強要なのだ。
清く、正しく、美しい
そういう生き方の素晴らしさを、笑っちゃうぐらい必死で説く。いい人だから。
その口に溢れる綺麗事を紡ぎ合わせて丁寧に編み込んで、巨大なテントを張る。そのうちテントの中"だけ"が正しいと考えるようになり、外界の「無垢」に「きれい」な服を着せて祝う。いい人だから。
それが宗教だ。
なまじいい人だから、テントの中の繁栄のためにできることは全力でやる。すごいスピードで大きく強くなる。狂気だ。それを狂気と思っていないことがまた狂気だ。
私はそんな自称白鳥の中に生まれた醜いアヒルの子だった。
生まれた瞬間から「きれい」の服を着させられていたので自分でもあんまり気づけなかったが、私は完全にいい人ではなかった。
清く正しく美しくというのがどうにもむずがゆく、何度かテントから家出する。
するとあの美しいテントの内装からは想像つかないいびつな形をした、灰色と薄茶色と紫っぽいえんじ色のマーブルを放つ物体がそこにあり、窓から父と母が笑顔で手招きしている。
テントを外から見るのが怖くて、私は結局またテントへ逃げ込むのだった。
そうだ、みんなテントの中に入れば、みんな幸せだ。
臭いものに蓋の理論だが本気でそう考えた頃もあった。というか生きるためにそう考えざるをえなかった。
まだ飛べないアヒルは、テントがなければ生きることができなかった。
やがてみんなみんなテントの中に入るなんてのは無謀だと知った。
でもまだ飛べない。アヒルはせめてテントの中の平和を守ることを望んだ。
自分が嘘を吐き通すことでそれが達成されることはわかっていた。
私が一生「きれい」な服を着ると誓いを立てると、テントの中のいい人たちは目を見開いて喜んで宴を開いた。あれはとんでもない光景だった。美しかったけど、とても正しいとは思えなかった。
絶対にいつかここから逃げると心に決めた。
翼が生えるまで22年かかった。
ひたすら大きく頑丈な翼を育てることと、テントの死角に入るような土地に降り立つことだけを考え、勉強した。
やっと夢叶って、後を濁さず旅立った。
夢というよりは念願だろうか。テントから離れることが私の人生の目的ではないはずだ。
服を脱いで、今からちゃんと自分の幸せを見つめて、私の人生をスタートする準備をしよう。
今はそんな状態だ。
両親はまごうことなきいい人だった。
正しいことが大好きな人だった。
学校でタダシイに出会い、またタダシクナイにもたくさん出会った。
タダシイを愛し、タダシイに導かれるまま人生を歩んだ。
タダシクナイ汚物を全部払いのけて、テントの中に入って幸せになった。
テントの布を織り成す糸は複雑に絡まり合い、よくそれらを指差しながら難しい話を説いてくれたものだったが、
今思えば生き方そのものはシンプルだった。
ただただタダシく生きるだけだった。
ごめんね。あなたのタダシイは、私にはちょっと違うんだ。
最初から用意されたタダシイだけ摂取して生きるのが、恐ろしくてたまらない。
もっと何も考えずに生きれば楽なのかもしれないけど、私は悪い人だからそんなシンプルにはなれない。
もっとなんでもかんでもごった返しの世の中で、ぐちゃぐちゃに生きて、ぐちゃぐちゃを愛して生きて、
その中から宝石を探して、見つけたら自分で触れて握りしめて、その後いっちばん美味しい呼吸をしたい。
一度だけテントの外から叫んだその声の返事は、大爆笑だった。
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