見出し画像

「最高の働きがいの創り方」序章を全文公開 - 働きがいランキング3年連続1位&重版記念

株式会社コンカーの三村真宗(@masamune_mimura)です。

2020年2月26日に2020年「働きがいのある会社」ランキングが発表され、私が代表を務める株式会社コンカーは3年連続となる1位(中規模部門|社員数100-999人)を獲得しました。

▼ 2020年2月「働きがいのある会社」ランキング 表彰式

画像2


2018年にはじめて1位を獲得して以来、組織の働きがいに悩む経営者やリーダー、自身の働きがいに葛藤する若手社員といった多くの方々から相談を受ける機会が増えました。

そうした方々とお話ししていると、近年浸透しつつある「働き方改革」についてはなんらかの取り組みをしているものの、「働きがい」とはそもそもなんなのか、どのようすれば高められるのか、ピンと来ていない方々が実に多いことに気が付きました。

働き方改革によって組織がいくら「働きやすい」ものになったとしても、そこに「やりがい」や「働きがい」が不在ではいけません。そのような組織は「ぬるま湯職場」になってしまう。

一見楽そうですが、業績の拡大を目指す企業にとって、そして働くことを通じて成長を志す社員にとって、職場がぬるま湯でいいはずがありません。

▼「働きやすさ」と「やりがい」が両立しているのが「働きがいある職場」

画像22


そのような状況に危機感を抱き筆を取ったのが本書です。「働きがい創り」の参考にしてほしい。そんな思いを込めて本書にはコンカーで8年掛けて取り組んできた「働きがい創り」のノウハウを徹底的に盛り込みました。

コンカーでの「働きがい」の取り組みは、思いつきや場当たり的なものはなく、むしろPDCAも含む継続的な運用を前提としたものであるため、他社でも再現することは十分に可能です。

具体的なノウハウは第1章以降に記述してあるため、このnoteで公開する序章では私自身のキャリアの足跡からはじまり、ある挫折から「働きがい創り」に真剣に向き合うようになった背景を中心に書いています。

「終身雇用は絶対に終わる」と思ったから創業まもない外資系日本法人へ

コンカーがいかにして「働きがいのある会社」へと生まれ変わったか。その話をする前に、少しだけ私のことを知っていただくと、より理解が深まると考えています。まずは、自己紹介をさせてください。

私は1993年、大学を卒業後、創業メンバーの1人として、また新卒社員の第1号として、SAPジャパン株式会社に入社しました。SAPジャパンには2006年までの13年間務め、その5年後の2011年にコンカーの日本法人の社長になりました。SAPは今、コンカーの親会社にあたりますが、これはまったくの偶然です。コンカーの社長に着任して3年後の2014年、経営統合によりコンカーがSAPの傘下に入ることになりました。SAPによる買収の決定を知った時、「人生何が起こるかわからない」と思ったものです。

今ではマイクロソフト、オラクルに次ぐ世界第3位のソフトウェア企業として、日本でもよく名前が知られるようになったSAPですが、私が入社したのは、日本法人の創業期。内定をもらった1992年の夏の時点では、日本では法人の登記すらされておらず、だれもその名前を知らない状況でした。

▼ 独ワルドルフ市 SAP本社 1993年4月ここから社会人生活が始まった

画像3


当時、周囲の大学の友人たちは、当たり前のように銀行や商社、生損保など日本の大企業への就職を目指していました。しかし、私の中にその意識はありませんでした。「終身雇用は絶対に終わる」と予感し、だから、企業に己のキャリアを委ねる「就社」ではなく、どこでも通用する自立したビジネスマンを目指したい、と考えたのでした。

会社に身を委ねず、自分の力で生き抜く。そうなると、おのずとその対象は、終身雇用感の強い日本企業ではなく、実力主義の外資系へと絞りこむことになりました。当時、大学の友人でスタートアップや外資系企業をあえて選ぶ学生はほとんどいない。まわりの友人に、私の就職観はまったく理解されませんでした。


人材が少ない会社に行ったほうが責任ある仕事を任せてもらえる

結果的に、投資銀行、製薬会社、コンサルティングファーム2社、そしてSAPから内定をもらいました。すべて外資系です。まだ日本進出前のSAPへの入社を最終的に決断したきっかけは、コンサルティングファームのパートナー(役員)との最終面接での会話でした。

聞いてみると、コンサルティングファームでも入社して数年間の仕事は業務のコンサルテーションではなく、プログラムのバグ出しのような仕事が多いよ、と。また、そのパートナーは海外のITの動勢にくわしく、ほかに受けている会社の話になり、SAPについて、「あの会社はまちがいなく伸びる」と教えてもらったのです。

じつは最初、SAPはコンサルティングファームなのだと思い応募しました。面接を受けて説明を聞くと、実際にはコンサルティングファームではなく、企業向けのソフトウェアを提供する企業であることがわかったのですが、それでもいいと思いました。コンサルティングファームといっても、ITに近いこともやっているわけですし、SAPでもITを活用した業務のコンサルティングができると考えたからです。それなら、どちらに就職しても仕事の内容に大して変わりはない。だとすると、スタートアップでまだ人が少なく、ベテラン社員や先輩社員が少ない会社に行ったほうが、早い時期に責任のある仕事を任せてもらえる──そう考えたのです。

端的に言えば、人材の層の薄さと成長期待です。人材の層が薄ければ、最初から若手に責任のある重い仕事が回ってくるはず。がんばって、背伸びして、その重い仕事をやり遂げれば、さらに重い仕事を任されるようになる。このポジティブな循環を通じて、どんどん成長していけるはずだと考えたのです。

リスクは、SAPの事業が軌道に乗らず、数年で日本市場を撤退してしまうこと。しかし、もしそうなったとしても、会社に身を委ねずがむしゃらに働いて自分がプロフェッショナルとして成長していれば、内定を断ったコンサルティングファームなどに転職できるはずだから、それは取ってもいいリスクなのではないかと考えました。

結果的に、SAPジャパンを選んだことは大正解でした。もし、リスクを取らずに日本の大きな会社に入っていたら、人材の厚さに阻まれてくすぶることになっていたかもしれません。


ビジョン、ミッション、価値観を描けば、マイクロマネジメントは不要になる


その後、SAPジャパンは数年で1000名の規模へと急成長。期待していたとおり、創業間もないSAPジャパンは人材の層が薄く、成長ペースも予想をはるかに超え、慢性的な人材不足の問題を抱えていました。そのため、年齢や社歴に関係なく、成果を出す人間にチャンスが与えられる状況が続いていたのです。

▼ 1994年 SAPジャパンとして最初に発行された会社案内から

画像4


これは、私にとって期待どおりの状況でした。入社してほどなくどんどん重い仕事を任されるようになり、2年目には全員年上の10名程度の部下を持つ管理職にもなりました。

製品マネージャーや導入コンサルタントのような技術寄りの仕事からスタートした私でしたが、入社7年目にあたる1999年にはSAPジャパンの初代社長であった中根滋氏に見出され、新規事業の社内カンパニー社長のような立場を任されることになります。

▼ 2012年5月 SAP初代社長 中根茂氏と - 社長就任のご挨拶で

画像18


私は、当時のSAPとしてはめずらしい分析系の分野に興味を持ち、ドイツ本社に出張して最新の情報を調査したり、自主的に社内で勉強会を開催したりと、分析系の普及に向けてさまざまな啓発活動を、だれに指示されるでもなく自主的に推し進めていました。

それが、どうやら社長の中根さんには「アントレプレナーシップがある若者だ」と目に留まったようです。ちょうど中根さんは「分析系の事業は従来とはまったく異なるアプローチが必要」と考え、営業も技術者もすべての職種を含んだ社内カンパニーを立ち上げる構想を持っていたのです。

入社7年目で、当時29歳。私は社内カンパニーの本部長として約30名の社員を束ね、SAPとしてはまったく新しい分析系の事業の立ち上げを委ねられました。技術職から事業責任者への転換──私にとって、これが仕事人生で最初の大きな転機となりました。

新規事業の立ち上げを任せられた私は、経営やリーダーシップに関する本をむさぼるように読んで勉強しました。そしてどの本にも書かれていたのが、この話でした。

「会社経営では、ミッション、ビジョン、価値観をすべての中心に据えなければいけない」

図6

そこで、「泊まりがけの合宿をおこなって、事業本部のミッションやビジョン、価値観を社員といっしょに決めていく」という取り組みをしました。実践してみて驚いたのは、ミッションやビジョン、価値観、さらには戦略をしっかりと描いて部門のメンバーと共有しておくと、マイクロマネジメントが不要になることでした。社員が勝手に動き出すのです。

「山を登るのが僕らのミッションでありビジョンだとしたら、登り方は問わない。各自で考えてほしい。必要な経営資源は僕が会社から引っ張ってくる」そう話したものです。

細かく指示をすることなく、部門のメンバーたちが大所高所から自発的に考え、物事が動いていきました。大きな使命感(ミッション)と大きな夢(ビジョン)を分かちあえているので、瑣末なことでモチベーションに気を揉んだりすることもありません。

当時、若手ばかりで結成された新しい事業本部は、「自分たちの新しい分析事業をSAPジャパンにとって第2の事業の柱にするのだ」というビジョンに燃えて、部門一丸となって仕事に打ち込みました。

事業本部長になって1年が経過した2000年に、SAPジャパンの2代目社長として藤井清孝氏が着任します。初代社長の中根さんは私に人生の転機をくださった恩人であり、2代目社長の藤井さんはその後の私の人生に大きな影響を与え続けてくださっている恩人です。

▼ 2009年 SAP2代目社長 藤井清孝氏(左端)
EVインフラ事業時代の写真(中央は当時の松沢成文 神奈川県知事 当時)

図7

藤井さんには「SAPのことをよく知る若手を補佐に付けたい」という考えがあり、私が候補に選ばれました。大きな夢を共有し、一丸となって燃えた部門のメンバーとの別れはつらいものがありました。しかし、「藤井さんを助けることが、SAP全体を助けることに少しでもつながるのであれば」と考え、社長室長として藤井さんの補佐の仕事を引き受けることになったのです。

藤井さんが着任した当時のSAPジャパンは、カリスマ性あふれる中根さんの退任後、社長不在の期間が数ヶ月あり、社員のモチベーションも大きく下がっている状況にありました。これを立て直す方策を、藤井さんと毎日話し込んだものです。自分の部門での成功体験から、「SAPジャパンも原点に立ち返り、ミッション、ビジョン、価値観を社員と共有すべき」と訴え、藤井さんも「それはやるべきだ」ということになりました。

マネジメントメンバーとの合宿などを通じて、SAPジャパンとしてのミッション、ビジョン、そして「行動原則」と呼ばれる価値観を定めました。それを全社員会議で社員と分かち合い、半年に一度だった全社員会議も四半期に一度の頻度に増やし、繰り返し伝えることで、社員への浸透を図りました。SAPジャパンはその後、社員の意識調査でモチベーションの改善が続き、また業績も急速に回復することになります。

藤井さんとのこうした活動を通じて、ミッション、ビジョン、価値観を大切にする経営は、数十名規模の部門だけではなく、1000名を超える会社全体でも効果を発揮することを体感しました。

その後の2年間、社長室長として経営を裏から支え、会社の立て直しに見通しがついたこともあり、私はふたたび新規事業を担当する仕事に戻りました。新卒社員としては初の、外資系では役員に相当するバイスプレジデント職に就き、いくつもの新規事業を手がける日々が始まりました。

▼ 2004年 新規事業の責任者時代 ー 新製品記者発表会

画像5


しかしその中で、心血注いだ1つの事業の立ち上げがうまくいかず、部門が解散されるに至り、大きな挫折感を味わうことになります。SAPジャパン入社から13年が経った2006年のことです。新規事業は、10あれば、うまく立ち上がるのはよくて3つ。失敗を受け入れる心の強さや、敗因を分析して次に活かすしぶとさが必要です。その事業が失敗した一番の原因は、後から冷静に振り返れば、自分自身や部門メンバーの力不足というより、当時の製品力があまりにも弱かったことが原因でした。

しかし当時の私は、その責任はすべて自分の力不足にあると受け止めてしまいました。結局、その挫折を自分の中で消化することができず、長年働いたSAPジャパンを離れる決断をしたのです。


異例のマッキンゼー入社、給料大幅ダウンの選択をして得られたもの


私が次の職場に選んだのは、コンサルティングファームのマッキンゼー・アンド・カンパニーでした。SAPジャパンではおもに新規事業の立ち上げを担当していたため、戦略を立案する機会も多く、多少の自信もありましたが、すべて自己流。しょせんは独学の無手勝流のようなところがあり、戦略というものを学び直したいと思っていたのでした。

そこで、「どうせやるなら最高峰でやってみたい」と、マッキンゼーの門を叩いたのです。

画像20

ただ、私の入社は異例だったようで、「SAPで役員をやっていたような人が来た」とマッキンゼーの社内でも少なからず話題になったようです。

なぜなら、それまでの役職を棄て、マッキンゼーでは役職も何もない〝ひら〟のコンサルタント職からのスタートだったからです。

給料も大きく下がりました。まったく異なる業種と職種で自分を鍛え直すのだから、今はまだSAPジャパン時代のような価値は出せない。

「いったん給料が下がろうとも、ここでの経験で自分は絶対に成長できる。だからこれは投資だ」そう言い聞かせて、給料ダウンも当然と考えました。

結果、この選択をして本当によかったと思っています。短期的に収入が下がろうとも、マッキンゼーで得たかけがえのない経験は、今の社長としての仕事にも大いに活きています。

入社して1ヶ月、同期入社のコンサルタントたちと会議室に文字どおり〝缶詰〟になり、プロブレム・ソルビングの手法を徹底的に叩き込まれました。

▼ 2006年 マッキンゼー入社トレーニング 
 同期入社の大嶽浩司氏(現昭和大学麻酔科教授)と

画像6


その後、実際のクライアントのプロジェクトにアサインされ、そこでもビシビシと鍛えられました。たとえば、「クライアントのこの課題はこうすれば解消できると思います」と、私が過去の実務経験に照らし合わせて打ち手を述べたりする。

そうすると、同僚のコンサルタントから「それは、どういうファクトとロジックで言っているのですか?」と問われるのです。「いや、これは私の経験です」と言うと、「客観的なファクトとロジックがないので、それは……」とたしなめられてしまう。

また資料1つを取っても、些細なミスや詰めの甘さも許されない。少し辟易してしまった私に言ったあるパートナーの言葉が今でも忘れられません。

「細部の詰めはプロフェッショナルである以上、当たり前。それにマッキンゼーの資料は、我々のいないところで経営の意思決定に使われる。その後10年、クライアントに残り、使われ続けるかもしれない。その覚悟を持ってほしい」

SAPジャパン時代は、早い時期から結果を残していたこともあり、あまり人にきつく指導されることもありませんでした。しかし、マッキンゼーの2年間は、新米コンサルタントとして、厳しくも人の成長に強いコミットを持った多くの先輩コンサルタントや経験豊富なパートナーの指導を得て、また頭脳明晰でありながら人柄にも優れる同僚コンサルタントたちからの影響を受け、自分の視野と経験を大幅に広げる機会になりました。

そしてそれは、文化面でも私の考え方に大きな影響を与えたのでした。マッキンゼーの人の成長に対する強いコミットメントや、後述しますがコンカーで始めた「高め合う文化」の原点となったフィードバックすることの大切さも、マッキンゼー時代に学んだことです。

マッキンゼーの在籍は、わずか2年間にすぎません。コンサルタントとしてその真髄を知るはるか手前で辞めてしまったので、私がマッキンゼーのことを書籍で語る資格などないのかもしれませんが、素晴らしいクライアントとプロジェクトメンバーに恵まれ、それは私にとってとても濃密な2年間でありました。そして、「マッキンゼーで学んだ考え方や方法論を実務に応用したい。コンサルタントとして課題解決を提案する側に立つのではなく、実務をする側として自分で課題解決し、その遂行までもおこないたい。そうすればSAPジャパン時代とはまた違うレベルの質の仕事ができる」と考えたのです。


わずかなミスで、悪い文化は澄んだ水に墨を落とすように広がっていく


その後、ベンチャー企業を経た後に、自分で会社を起こす準備をしている中で知り合ったのが、ベンチャーキャピタルであるサンブリッジの会長、アレン・マイナー氏でした。アレンさんはオラクルの日本支社を立ち上げるために80年代に来日。その後、クラウドサービス最大手のセールスフォース・ドットコムの日本法人を合弁会社として共同出資して、立ち上げに成功させた人物です。ビジネスの実績面だけではなく、日本語が非常に堪能で、日本の文化を愛し、周囲に対する思いやりに溢れる、とても魅力的な人物です。

2010年当時、私は現在のUberや全国タクシーに近いモデルのサービスを自分の会社でリリースする準備をしている中で、アレンさんにも出資を仰いでいました。

▼ 2010年 スタートアップ事業の事業計画書から抜粋

図23

図22


そのサービスは技術的な課題に直面していたこともあり、ほかの大手企業に事業を売却し、アレンさんにも出資をお断りする報告をしたところ、「日本への進出を準備している面白い会社がある。社長を引き受けてもらえないか」という申し出をいただいたのです。それがコンカーでした。

アレンさんは、コンカーの日本法人を、コンカー本社との共同出資による合弁会社として設立していました。これは、セールスフォース・ドットコムと同じ手法です。しかし、適任の社長を見つけることができず苦労していたのです。

▼ 2012年 コンカー日本法人の設立記者会見
右端 アレン・マイナー氏
左から二人目 Concur Technologies創業者 スティーブ・シン氏

図24


経費精算という分野は、従来は光が当たらない、やや地味なテーマでした。しかし、これだけ世の中の人が強い不便を感じており、またあらゆる企業に存在する業務であることを考えると、非常にポテンシャルのあるビジネスであると考え、この申し出を受ける決断をしました。こうして2011年、私はコンカーの日本法人の社長に就任することになったのです。

私が入社した当時、すでに会社にいたのは、技術者とアシスタントの2名のみ。ここから、事業のスタートに向け、法務的な契約書の整備から、広報、マーケティング、営業体制づくりまで、すべてをおこなうのが、私の最初のミッションでした。

ところが、ここからの約1年、私自身もコンカーの日本法人も、大きく迷走し、混乱してしまうことになります。

1つの失敗は、組織作りが後手に回ってしまったこと。本来であれば、営業部長、マーケティング部長、管理部長といったマネジメントのコアチームを早々に組成して、チームで分担しながら会社の立ち上げを進めていかなければなりません。ところが、コンカーの米国本社が未知数の日本市場に対する投資に非常に慎重だったこともあって、初期の採用計画がすべて却下され、本来は最初の半年で整えるべきマネジメントチームを一気に充実させられなかった。

立ち上げに関わるあらゆる業務をすべて社長である私1人で担うことになってしまったのです。結果として、とにかく仕事が後手に回る自転車操業のような状態に陥り、SAPジャパン時代にあれほど大切にしていたミッションやビジョン、価値観をおざなりにしてしまいました。そのしっぺ返しを、私は思い切りくらうことになります。

そしてもう1つの失敗は、採用でした。即戦力にこだわり、文化的なマッチングなど度外視してしまった。明らかに採用に甘さが出たのです。結果的に社内に心地よくない雰囲気が蔓延してしまいましたが、私自身に余裕がなく、それを抑えることもできませんでした。

本当にひどい有様でした。情報は隠され、共有されない。社員に相互の信頼がなく、協力し合わない。疑心暗鬼が広がり、常にだれもが不安を抱えている。どう市場を攻めていくか、という戦略も一致しない。この先がどうなるのか読めない……。

採用の失敗がとんでもない事態を巻き起こすということを、私は痛感することになります。これまでに経験したことのない事態でした。1つの失敗で、澄んだ水に墨を落とすように、よろしくないカルチャーがパッと広がっていってしまった。時には、社員同士で罵声が飛び交うようなこともありました。こうなると、ちゃんとしていた社員までおかしくなっていく。

図1

当時を知る社員は「暗黒時代」と呼んでいます。今では日本における「働きがいのある会社」ランキングで第1位になった会社が、立ち上げ当初は暗黒状態にあったのです。


「あるべき姿」を描いたら会社が変わっていった


社員間のいざこざに私自身が疲弊している中で思い出したのが、駆け出しのマネージャーの時に愛読していた『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』という本でした。日本語のタイトルよりも、英語のタイトルである『Good to Great』の方が私にはしっくり来ます。Good to Great、つまり、よい(Good)会社でいることに満足するのではなく、偉大な(Great)会社になるためには何が必要なのか、が論じられた本です。

▼ 転機になった本 - 日経BP社刊 ビジョナリーカンパニー② 飛躍の法則
(原題 Good to Great)

図25


この本の中に「正しい人をバスに乗せる」という章があります。経営方針や戦略が正しくても、不適切な人が集まっていては、偉大な会社にはなれない。逆に、適切な人が集まれば、動機付けやマイクロマネジメントをしなくても、みな自分で考え自発的に動き出す、という趣旨です。

大変に苦悩しましたが、「コンカーの事業立ち上げという旅を共にできない」と考えた人とは、ごまかしのような折り合いを見つけるのではなく、短期的には双方にとって痛みがあっても、長期的な視点からバスからは降りてもらおうと決断しました。そして、そうした人たちとは、じっくりと話し合いを持って別の道を歩んでもらうことにしました。これでやっと、人心が1つになる土壌ができたのです。

その時、SAPジャパンの最初の事業本部の時代から苦楽を共にしてきたある社員が、「三村さん、今こそSAP時代にやっていた合宿、あれをやりましょう」と提案してくれました。後に「オフサイトミーティング」と呼ばれて毎年おこなわれるようになる「合宿」を、2013年の1月にはじめておこなうことになったのです。これが大きな転機になりました。

当時の合宿の資料が今も残っています。その資料の表紙をめくった1枚目に、「合宿の目的」が書かれており、そこにはこう書かれています。「コンカーは創業2年目に入り、成果は出つつあるものの(これは社長としての強がりです)、まだまだ多くの課題が山積している(こちらが本音です)。5年後の会社のあるべき姿を見据え、いまある課題を抽出し、合宿で議論しましょう」と。

そして、その冒頭に、「5年後の会社のあるべき姿」として、こう書かれています。

「全世界のコンカーの中で米国に次ぐナンバー2の事業規模になる」
「国内IT企業で最も働きがいのある企業になる」

▼ 2012年 最初のオフサイトミーティング - 合宿の目的

図13

当時の暗黒時代の中、グローバルで2番目の規模になることも、ましてやIT企業で最も働きがいのある企業になることも、夢物語にしか思えなかった記憶があります。しかし同時に、それらはまったくの不可能ではなく、やり方次第ではチャンスがあると思ったことも事実です。だからこそ、合宿の最初に、こうした私の夢を共有したのでした。

その後、コンカーは業績面で年平均88%という急速な成長を遂げ、2017年の実績で米国に次ぐ2番目の規模に成長し、1つめの目標を達成することができました。

▼ コンカーの売上推移 2014年 - 2019年 年平均成長率 88%

図26


▼ コンカーにおける国別比較 - 米国外で日本は群を抜いて1位
ドイツ、UK、フランスの欧州主要3カ国の合計に匹敵

図27


そして、文化面の取り組み。こちらは、その後、ミッションやビジョン、価値観を「Concur Japan Belief(コンカージャパンビリーフ)」としてまとめ上げ、その後、後述する「高め合う文化」の活動や、さまざまな制度の立ち上げをおこなってきました。

▼ 2018年のオフサイトミーティングの風景

図3

▼ 2018年に開催したファミリーディの風景

図2


5年間に渡るこうした活動によって、2018年2月にGPTWが発表した日本における「働きがいのある会社」ランキングの中規模部門(従業員数100-999人)で1位を獲得することができ、2つめの目標をも実現することができたのでした。しかも、それは当初掲げていた「IT業界で一番」ではなく、「日本で一番」として。

▼ 「働きがいのある会社」ランキング(中規模部門)2018年-2020年

図28


▼ 「働きがいのある会社」女性ランキング(中規模部門)2017年-2020年

図29

2013年の最初の合宿で掲げた不可能に近いと思えた、5年後の2つの夢。それらが、5年後の2018年に、本当に2つとも叶ったのです。

振り返れば、この2013年の合宿が暗黒時代を乗り越えて、新生コンカーが船出していく大きな節目になりました。ここから「働きがいのある会社」に向けて、数多くの課題を解決し、本書で紹介していくさまざまな施策や制度、仕組みが生まれていったのです。

*   *   *

以上が「最高の働きがいの創り方」の序章です。
第1章以降、具体的な考え方、施策、制度について紹介して行きます。


最高の働きがいの創り方|目次

序章 SAP,マッキンゼー,そして失敗から学んだ組織の法則

第1章 最高の働きがいは企業文化の醸成から生まれる

第2章 【戦略の可視化・実行】社員に高い視座を持ってもらい,最高のパフォーマンスを発揮できるようにする

第3章 【モニタリング・フィードバック】良いことも悪いこともきちんと受け止め,次の一手を打つ

第4章 【認知・感謝】貢献を目に見える形にして,全員で共有する

第5章 【連帯感・コミュニケーション】タテ・ヨコ・ナナメで双方向のつながりを強める

第6章 【人材採用】採用率3%に厳選し,会社に溶け込んでもらい,辞めない仕組みを作る

第7章 【人材開発】長期の視点でキャリアを作ってもらう制度を作る

第8章 【人材評価】納得感を最大化し,目立たない努力に目を配る

第9章 【働きやすさ】「ワークライフバランス」と多様性に配慮し,休みが取りやすい,柔軟に働ける仕組みを作る

おわりに 「働きがいのある会社」づくりは経営戦略である

謝辞

このnoteは、「働きがいのある会社」ランキングで3年連続1位を獲得し、また3刷目の重版が決定したことを記念して、出版社である技術評論社のご厚意で序章の全文公開の許諾を得ました。

許諾について調整のお骨折りを頂いた技術評論社の傳智之さんには、この場をお借りして深く御礼を申し上げます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?