知的に雁字搦め

寝起きの虚ろな頭で考える。
私は、感覚優位になるのを恐れているのかもしれない。知的好奇心で自分を満たして、感覚から離れたい。無意識のうちに、自分で自分を言葉で縛って雁字搦め。私は自分を惑わすようなことを時々言う。反対に人の言葉には惑わされにくいとも思う。言葉の耐性とでもいうのかな。人に言うか言わないかは別として、卵の殻のように硬い言葉で心を理論武装しているからだ。

本音という感情に蓋をするといつか爆発する。
これは常々感じていること。だからといって本音全開では生きにくいし生きられない。

だから私は、感情を飼いならす。感情のままに生きられなくても、想いを素直に表現できなくても、心の中で感じた感情は否定しない。それが、フロイトのいう反動形成だと理解している。
反動形成は防衛機制のひとつで、受け入れがたい感情や衝動といった自分の本心を正反対の意識や行動に置き換えることをいう。反動形成が悪いか?というと必ずしもそうとは言えない。自分で自分を守る為に、反動形成を働かせることで、なんとか社会生活を送れていると思うから。

言行一致などしなくても、自分を責めない自分でいたい。むしろ、自分自身の言葉や態度に引っ張られて自分の想いを誤魔化さない。これには細心の注意を払っている。一貫性を保とうとして本音を捻じ曲げることこそが、心と身体のバランスを崩す要因だから……。

矛盾を愛する。
支離滅裂でもとことん許す。
自己表現より生きやすさ。

この瞬間、一時的に生きやすい道を選んだとしても、心の中まで手放す必要ないんだよって、もう一人の私が優しく囁く。

ただ、それでは納得できない自分も時々現れる。そうなると一人、感情を言葉に吐き出して発散することもある。なんの装飾もない私が、わぁわぁと駄々をこねる。吐き出したからって、言葉にしたからって感情には囚われない。寧ろ誰にも迷惑かけてないから、いいよねって気持ちにもなる。

感情よりも何よりも、私が一番恐れているのは感覚。触れることだ。触れたら、相手の気持ちも自分の気持ちも全部、一瞬でわかってしまう。言葉で越えられない領域に一気に飛び越えてしまうのが怖い。だからこそ私は、知的に戯れている温度が心地良くて、ずっとそのスタンスを崩せないでいるのだろう。

こんなふうに、俯瞰的に「私」という混沌を眺めてみたりしたら、少し幸せな気持ちになって可笑しい。私は、私に許されることで何よりも安心できる。

今日は心の中でだけ、あの人に好きだよって言ってみる。ただそれだけ。それだけでまた恥ずかしくなって、そんな自分が可笑しい。

断言したり宣言したり、そんなことばかりしていると段々と疲れてくる。こんなふうに取り留めのない自分を綴ってみる。そんな日もあっていいのかもしれないなぁ。