考えることは生きること、考えないこともまた生きること。

時々、「こんな文章誰が読むんだろう?」とか「私は文章が下手で……」と書いている人がいるけれど、私はそういう人の文章がむしろ好きだ。特に日記のように誰にでも書けると思われるような文章ほど、書く人の在り方がにじみ出てしまうと思う。

こんなことを言うと本当に捻くれているなぁと思うけれど、ノウハウ系の記事を読むときは、その知識が欲しくて読むというよりも、発信者の立ち位置や目的、ターゲット層を想像しながら読んでいく。自分にとって得のないこと、利益のないことを書く人はいない、そう思っているから。人の為に、誰かの為に、そういう文章ほど、どこかに自分の為にが含まれていると思ってしまう。こういう私はきっと、あまり良い読者ではないだろう。


意味や目的を考えるな、与えられたものが全て……。そう考えると、人は盲目的になり誰かや何かに盲信してしまう。考えることの目的は、真実を知ることではない。自分の思考の癖や傾向を知ることだ。結果的に何かの知識を得られれば儲けもの。その程度だと思う。

営業職は、相手のニーズに沿って、自社の商品、サービスの意味や目的を伝えることだ。相手の為に意味を考えて伝えることで、商品やサービスの価値を上げることができる。

そして、売り手側にとってみれば、必要な意味を先に提示してしまえば、相手に選ばれない可能性を前もって潰せる。アイミツまで持っていって土壇場で選ばれないと、時間も労力もロスをしてしまう。相手に選んでもらう為には、より多く相手の情報を得て、ニーズに沿った価値を提供すること。そして、価値を示す説得材料としての意味を提示する必要がある。


先日引用した、養老先生と池谷先生の対談にも、「日本の教育って、いかに生徒を考えさせないかをずっとやってるんですよ。なぜなら、考えたら損するからね。」とある。そうかも。そして私は、とことん考えて、一方では考えないでやることとの折り合いをつけることが人より得意なのかもしれない。だから表面的には上手くことが進むこともある。

だからといって、考えることが苦手な人に頭ごなしに「考えろ」というのは酷であるし、また「考えずにやれ」というのも危険なことだ。技術として考えられない人もいれば、感情的に考えたくない人、考えることで良くなるどころか、トラウマが発動して心や身体を病んでしまうこともある。

実体験で言えば、乗車率100%超えの満員電車のことを思い出す。その日は他人と密着していても、いつもより感情はフラットだった。嫌な感じがいつもより少ない。これって慣れかな?身体も震えないし。そう思っていたら、自然と意識が遠のいていった。そして強烈な片頭痛。嫌なものは嫌。頭で意味など考えなくても、こうして身体が反応することが答えだと気付く。

人間ってこんなにも繊細なのに、強くもあって、本当によくできている。自分の身体に感じる危険信号やセンサーに敏感になることは、何よりも自分の身を助けることにつながると思う。

お残しはいけません世代ではあるけれど、幼い頃の私はよく自分のお腹に話しかけていた。まだ食べれる?と。しかし大人になって、お残しはいけません精神で、出されたものは基本的に全て食べてしまう自分に気付いた。

それは何も食事に限らず、人から与えられる行為、善意も悪意も、そういうものは基本的に全て受け取ってきたように思う。でもそれって自分のセンサーを無視していることなんだと思う。考えないというのは、生きやすくなる反面、自分の意思を少しずつ矯正していく行為だ。だからこそ一つひとつの出来事を時々振り返りながら、うっかり受け取ってしまったけれど、自分には必要のないもの、いらないもの、持っていても困るものをこっそり捨てる、ということも大切なことなのかもしれない。