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座右の銘 仏の半眼 !!

 何時から、自分の座右の銘が、仏の半眼に成ったのか、はっきりしない。
しかし、近年は、その座右の銘を決して、疎かにしないと心に深く刻んでいます。高齢で仏教に帰依するように、成ったと言う理由ではありません。まだまだ生臭く、何時になったら、自分は枯れるのだろうと、呆れています。
少し大人になったのは、自分は時にして、間違った判断をしたのではと、反省出来るように成った事だと思っています。

 若い時は、自分が正しいとの思いが、頭から離れることは有りませんでした。それを認める事は、自分が敗者であり、そんな思いを持つ事を決して認めようと、する気持ちは有りませんでした。
永い年月、多くの挫折を繰り返す中で、もしかして、自分は結果的に、間違って居たのでは、認めざるを得なく成って来ました。近年、自分は間違うことはあると感じています。

 悟りを得た仏様でも、眼を半眼にして、自分は果たして、今間違っていないか確認して居られると聞き、私なんかは、間違っても恥ずる事はないと、居直ってしまいました。間違いを認める事は、それすなわち敗者では無いと思えるように成ってきたようです。今更ながら、遅いのではと言われても、反論する事は出来ません。

 ならば、せめて、じぶんの半眼で見つめる、方向、価値観だけは、間違わないようにしょうと、思う一心で、冒頭の座右の名を、決して、忘れてはならないと、肝に命じています。ここで、自分の向かう方向も、大切にする価値観も、今後、間違ってしまうのであれば、自分がこの世に産まれた意味も無くなってしまうと思うのです。しかし、この課題も、安易に求められるものでは無いと感じています。半分は間違いだらけだったが、残り半分は、辛うじて、踏み外すことは避けられたと思って、終わりたいのです。

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