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『変態』とはなんぞや


かれこれ20年あまりも、学校訪問の活動を続けていたりすると、訪問先で出会う子どもさんからも、それはそれは様々な言葉を投げかけられることがあるものです。
電動車いすに乗った姿で子どもさんの前に出れば、『動けないなんてかわいそう』
『歩けないなんて大変そう』『自分だったら耐えられない』
…そんな…悲観的というか同情的な反応が返ってくることもしばしばです。
ですが私は、それを窘めたり、感情に任せて怒ったりすることは、しないようにしています。
正直すぎる子どもさんの反応に、内心ムッとすることも無いわけではないのですが…子どもさんの前では、いつも笑顔でいることを心がけています。
これは、ただ黙って耐えているのでは決してなく、『心身に障害のあることは…たしかに不便さ、不自由さを抱え込むことではあるけれど、それによって人生の幸や不幸は決まらない』という私の持論を、言外に示す意図があるからです。
障害の有無によって不幸が決定するのではない。これを掘り下げて説明させていただくならば、
生まれながらの先天性障害児として世に出た私の経験からすると、心身に抱えた障害なんぞ大したことではないのです。
それは、慣れや工夫、経験値でなんとかなります。
人生において本当に辛く苦しいことは
『助けて欲しいと思った時に自分の近くに誰もいない』
つまり孤独であったり、
『助けて…と叫んでいる声が周りの人に届かない』
という隔絶であったり
『自分を助けてくれる世の中の仕組みがない。または助けが足りない』という…
支援の不足であったりするのです。
すなわち『自分の周りに支援してくれる人がいて、かつ自分の声が誰かに届き、かつ自分のやりたいことを実現できる環境があるならば、重い病気や障害があっても幸せに暮らせる』ということなのです。
また、孤独に打ちのめされ、社会から隔絶されていて、かつ支援する環境が整えられていなければ…
たとえ障害のない人であっても、その人は不幸な人であると私は考えます。
人間の本当の不幸とは、人間同士の輪(和)の中に入れないこと。とけ込めないことなのです。
障害者が不幸だと言われてしまうことが多いのは、心身に医学的な障害があることに起因して、人同士が作る社会の繋がりに参画できないことがたくさんあるからであり…
すなわち『障害(バリア)』とは、本人個人が持っているものではなく、社会から押し付けられてしまうものだ。とも定義できます。

さて…
『mitsuguさんは変態なんですか❓』
と子どもさんに聞かれたことがあります。
学年は小学校の3年生。
まあ私は…40を過ぎた今になっても、女の人の前に出れば鼻の下が延びてしまうし、ちょっとでも空き時間があれば、忙しい中にも怪しげな妄想を欠かさない。
お前は変態か否か、と問われれば間違いなく「はい」と頷いてしまいそうになる私なのですが…
この時、この子が聞きたかった答えは、そういう私の性癖についてのことではないようでした。
《変態ってどういう意味‼️失礼でしょ‼️》
mitsuguさんに謝りなさい…語気を強める先生を、私は笑って見ていました。
そして、その子に
「変態って言われれば、そうかもしれないね。僕のどのへんを見て変態だと思ったのかな」
と、その子に聞いてみることにしました。
すると…
『車いすに乗っていたり、歩けなかったり』することが変態だというのです。
つまりその子は私の内面を見透かしたのでもなんでもなく…
変態=変わった人、特殊な人という認識で話していただけだったのです。
この誤った認識を、どのように正すか…少し悩みました。
「たとえばさ…君は男の子だけど、周りがみんな女の人だらけだったら、君は変態になるかな」
『違う!』
はっきり、その子は答えました。
「じゃあ、周りの人がみんな外国人で、日本人が君だけだったら、君は変態なのかな」
『違うよ!』
その子、少しイラッとしたようでした。
「ごめんね。少し意地悪な話をしたね。でもね。たしかに車いすに座っているのはこの教室の中に僕しかいない。
皆さんと違って身体が動かないけれど、ただ人と違うことが変態ってわけじゃない。ってことは、わかってくれるかな?」
『う〜ん…』
なかなか、納得できないご様子。3年生じゃまだまだ、言葉の微妙さまでは分からないようで
「じゃあね。変態っていうのがどういう人が教えてあげるよ。
本当に変態な人は、普通の人が絶対に考えないことを考えたり、普通の人が絶対にやらないことをやったりする人のことだよ。
ものすごく頭がいい…天才の人は、また変態だったりすることもあるんだよ」
ということにして説明しました。
本来的な意味の変態性欲…とはまた違うけれど、そこは小学校の教室、相手は小学3年生…ということで、あえてセクシャルな部分について触れることは避けました。
「僕はたしかに皆さんと違うところはあるけれど、だからといって変態じゃないと、自分では思うよ。
普通の人が考えつかないことを考えたり、普通の人がやらないことをやってる訳じゃないからね。ただ、ほんの少し、みなさんと違っているだけ」
はてさて、この説明で納得してくれたかどうか…
「人と違ったことを考えたりやってみたりすることは、悪いことではないんですよ。
誰かを悲しませたり、傷つけたり、困らせたりすることがなければ、変態でも全然いいと思う」
「でも、変態って言葉は、人を褒めるよりバカにしたりする時に使うことが多い言葉だから、あまり、人前で言わない方がいいかもしれないよ」
ということも付け加えておきました。
ともあれ…
健康で健常と言われるような…『普通の子ども』であることが求められてしまう…教室の環境において、『個性』というものが何なのかを伝え、なおかつ『違いを尊重する』ということがいかに難しいか…この時に痛感させられました。
違いがある…ということが…『おかしいこと』『悪いこと』として扱われかねない危うさを感じたのでした。
私のような障害者から見れば『健康で健常な子ども』ばかりが1ヶ所に集められ、そうでない子は弾かれる。
そんな教室の方が、余程、不自然に見えてしまいますけれど。

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