見出し画像

心の中の閻魔さま

何だか、妙なタイトルになりました。


前回UPしたオリジナル曲『アベコベ⇔シンドローム』。
これは前々回に書きましたが、元々は2017年につくったもの。
それを今このタイミングで、歌詞の書き換えをしました。

そのときあれこれ考えていたことを、書き残しておこうと思います。


自分を律する、ということ。
なんて言うと、何だか仰々しくなってしまいますが。

〈自律〉という言い方をした方が、通じやすいのかも。
「律」という漢字は、「人として進むべき道を記したもの」、という意味だそうです。

〈道徳〉や〈倫理〉とも表現できるのでしょうけど、これだと人によって捉え方がだいぶ違ってしまう氣もします。


ともかく、自分にとっての倫理観や信念というのは誰もがもっているもの、と思っていました。

わかりやすいのは、特定の宗教を信仰している、とか。
日本人の多くが「無宗教」だと言われますけど、それでも〈宗教観〉というのは何かしらあるはずで。


自分の場合。
ぼくは、特定の宗教を信仰してはいません。

ですが、漠然とはしているけれど、〈神さま〉を信じてはいます。

そして、もしかしたらちょっとズルいのかもしれないけど、仏教やキリスト教などの「いいとこどり」をしていたりもして。

〈神さま〉の代役?代行?のような形として、閻魔さまやお地蔵さまなどが心の中の監視役だったり相談役だったり。
キリスト教で言えば、天使のような存在、なのかな。

いい加減でごちゃ混ぜだけど、そんな〈宗教観〉が自分にはあります。

そうそう、これもまた漠然としたイメージだけど、そこには〈ご先祖さま〉も含まれてるんじゃないかな。

いずれにしても、そのときどきで姿かたちを変えて、ぼくの心や頭の中に存在していてくれる、そんな感じです。


さて、そろそろ本題に入ります。

倫理観や信念、そしてそれを見守ったりしたり手助けしてくれる存在。
当然バリエーションはさまざまだろうけれど、それでも誰もが当然のようにもっている感覚だ、と思っていたんです。

でも、よく考えると、それならなんでこの世界は嘘と欺瞞に満ちているんだろう?って。

ぼくだって、別に「清く正しく生きています」なんて、言うつもりはありません。
氣付けば道から外れて、どこへ向かうのか見失うことも多々あります。

組織などに属していれば、誰かから指示されたり命令されたり、逆らうことがなかなかできない場合もあるでしょう。
誘惑があったり、自暴自棄になってしまったり、そういうこともあるはず。

そうやって道を踏み外してしまったとき、どうやって戻るのか。

周りの目を氣にするのでは、かえって戻れなくなるパターンもありそう。
そこはやはり、「生きているニンゲン」をアテにしてはいけないんだと思うのです。
それだと、「見つからなければいい」とか、「お咎めさえなければいい」となりかねない。

そういうときにこそ、心の中の閻魔さまが必要だ、と思うのです。

改めて確認しておくと、閻魔さまなんて実在するわけないとか、舌を抜かれるわけないとか、そういうことではなくて。

自分の〈悪事〉や〈不正〉を見逃さない、道を外れていることを自覚する。
そのための擬人化というか、化身というか。

こう書くと、何ともストイックな印象に思われるかも、ですが。
自己批判とか完璧であれとか、そういうことではなくて。

自分が目指したいと思った道を踏み外している状態って、実はすごくつらいんじゃないか、って。
だから、そういった心の中に思い浮かべる〈霊的〉な存在に「本当にそれでいいの?」と問いただしてもらう、というか。

昔は、「ご先祖さまに顔向けできないことをしちゃいけないよ」なんて言い方もありましたよね。

この「顔向けできない」という感覚、〈罪悪感〉ってとても重要な感覚。
これを麻痺させてしまうのって、ただ単に警報を解除してしまうようなもの。

では、罪悪感を消すにはどうすればいいのか。

道に戻ればいい。

ぼくは免許をもっていないので、詳しくは知りませんが。
最近は、高速道路での走行時にハンドル操作のサポートをしてくれる車、というのがあるんですね。

それをイメージするとわかりやすいのかな、車線をはみ出しそうになると、警告音がなって教えてくれる。
それを止めるには、車線の中央に戻ればいい。

そう思うと、倫理観や信念って、快適な人生ドライブのために欠かせないもの、みたいな捉え方もできるのかもしれません。


でもそれは、心の中の閻魔さま(的存在)がいれば、の話。

「地獄の沙汰も金次第」とばかりに、閻魔さまにも賄賂で口止めしてしまったら、道に戻れなくなっても誰も助けてくれない。
自分自身で戻る術もなくなってしまいます。

自分の倫理観や信念に背いて、嘘と欺瞞にまみれていると、もう何のために生きているのかもわからなくなるんじゃないかなぁ。

いや、「背いて」というよりは、初めから曖昧にしたまま、なのかな。

曖昧にしておけば、自己矛盾からしばらく逃げられるから。
傍から見れば矛盾だらけの言動でも、本人は一向に氣付かない。

とは言っても、それを続けていくのはムリでしょう。
やはり、いつかは精神的に破綻してしまうんだと思います。

そうやって強制的にシャットダウンしないと、本当にどこかが壊れてしまうんじゃないかと。

そう考えると、ある程度の一貫性をもって自分の道を進もうとする方が断然いいな、と改めて思いました。
まあ、実際には言葉通りに簡単には行かないのでしょうけど。

自己矛盾だらけの人生って、ある意味〈悲劇〉だよな、と。
そんなようなことが、『アベコベ⇔シンドローム』の歌詞には少し盛り込めたかな、と思っています。

ただし、それが個人の場合ならともかく、国としての問題になってくると、傍観しているわけにはいかないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?