文字という声から人間性を感じ
先日文章を書いていたら"軌道"という漢字が思い出せず、Googleに頼ってしまいました。
この漢字、インターネットに頼っていなかった当時中学生の僕ならきっと書けたはずなので、インターネットの普及による手書き識字率の低下がよく分かります。
そんなわけで今回はデジタルテキストとそれに対する影響について少し。
最初に言ったとおり、今日ではスマートフォンなる文明の利器がありまして、それが身体の一部と化し、アクセシビリティは格段に向上しました。
今こうして文章をかちゃかちゃ打っているのもその恩恵でしょう。
ところがご覧くださいこの文字列を。
なんて綺麗で整った文字が羅列されていることでしょう。
僕は明朝体が好きなのでこのNoteも明朝体になっていると思いますが。
どちらにせよこの文字列からは一見人間性もバックグラウンドも感じないよろしくない画一性が感じられます。
そして相対的に手書きの文字からはその人の人間性が感じ取れたり、その中から魅力を感じるようにも。
手書きには文字が小さかったり、筆圧が強かったり、右肩下がりだったり、丸文字だったり、文字感覚が狭かったり、はねはらいが長かったり、色々な特徴があるわけですけれども、デジタルテキストになることで文字が声としてではなくもはや記号として捉える傾向が強くなりました。
そこから生まれる弊害は、価値ある言葉を価値ある言葉として受け取りづらいこと、そしてフェイクニュースや心無い言葉までもが整った文字が羅列されてしまうことです。
これが"価値の有無"で片づけば問題ないのですが、デジタルテキストというものはどうしても手書きとは遠くかけ離れた解釈がなされてしまいがちなものです。
つまり、文字を書く人間にとってはこれまで一文字一文字書く不便さがなくなり、ただの板をフリックするか四角いボタンを押すだけでライトな文字が並び、受け取り手にとってはデバイスが違えど文字を見つめるという元来ある動作に加えてまるでそれが事実であると錯覚してしまうほど綺麗な文字に調整されるということです。
しかしながら、時代は簡略化を辿るのでおそらくデジタル化やペーパーレスも相まって手書きにシーソーが傾く日はまだこないと思われます。
デジタルテキストの改善策としては、文字を打つ人や文章によって字体を勝手に変えるなんて機能であればSNSで実装可能な気もします。
上は明朝体、中はゴシック体、下は角のないふにゃふにゃ文字且つ全てひらがなみたいな。
"僕はそう思います"
"ぼくわそうおもいます"
これだけでも見え方が違います。
それにブロックチェーンを使えば非中央集権的にシステムを維持できそうです。
そんな理想郷は置いておいて。
現状を打破するためにまずは、綺麗に羅列されたデジタルテキストに見られる小さな特徴や書き手の癖から人間性を感じ取ろうとすることからではないでしょうか。
そして耳を澄ませてみる。
anonymousをanonymousなものとして受け取らないこと。
デジタルテキストを単に記号としてではなく、文字として、声として再解釈する。
そこから人間性を感じ取ることで初めて会話のオルタナティブになり得るのだと思います。
特に日本は目で受け取るよりも耳で感じ、表現する文化の強い国です。
こうして視覚の領域を超えて言葉の味わい深さに触れてみる。
そこに新たな面白さと、簡略化のプロセスの中で生成される複雑性が眠っているのかもしれない。
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