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共-創造&文化

マジョリティとマイノリティは共存するべきであり。

最近ではマイノリティにいることが善みたいな匂いが何となくするのですが。

おそらく揚げ足を取る最高の同調圧力平和国ジャパンの逆張りみたいなものなのでしょう。

とはいえ、たしかにマイノリティというものはクリエイティビティの上で非常に重要です。

つまり、例えば絶対に成功させなければいけない仕事があった場合、普通は大衆の意見に集約されるということです。

そのテンプレートを一度曲げてマイノリティに切り替えてみることで初めて0→1のクリエイティビティが生まれます。

それに最近は社会全体がマイノリティに対して優しくなったような変化を微かに感じたり。

一昔前は苦手を苦手でなくすることに精を出していましたが、今は苦手の有無に関わらず得意を得意なものとしてどう社会に還元していくかに重きを置く傾向にあります。

一方で、マジョリティを好むのは生物構造上ある種当たり前だとも思います。

例えば、人は顔を全体の平均値であればあるほど好むという平均美人説があったり。

あとはつまるところ日本大学の学生数が圧倒的に多かったり。

アビリティや遺伝的な要素を含めても平均値、即ちマジョリティというのは蔑ろに出来ません。

つまり、文化やしきたりの中でマジョリティとマイノリティはどちらか一方のプロパガンダが起こるべきではないということです。

日本人には日本人による日本人的な日本人があり。

アメリカ人にはアメリカ人によるアメリカ人的なアメリカ人があり。

どこでクリエイティビティを生み出す耐久されたマイノリティとバイオリズムの普遍性に随順したマジョリティを使うかは置かれた環境や立場によって違っていて。

そしていずれの選択肢が社会的潮流やローカライズされたコモンセンスによって批判されるべきではないと。

この2つはデオキシリボ核酸のように絡まり合っているものとして、そのカオスな渦の中心が創造と文化の共存であると言えます。

これは赤と青で紫になるということではなく、昭和のバーバーショップみたいに単色が連なっているだけということです。

しかし、この2つというのはセンシティブかつ紙一重な側面があるので時折対立することもあります。

少しだけ話を逸らして、マジョリティとマイノリティを保守と革命に置き換えて考えてみます。

例えばビジネスの世界だと、保守と革命という観点においては両者が共存することはほとんどありません。

常に保守と革命の選択に追われていて(特に企業スケールが大きいとよりその傾向が如実に現れたりする)、両者が剣を握り合っている。

ただ本質的な敵はおそらく違っていて、大体革命が負ける時はプライドに負け、保守が負ける時は時代に負ける

この"プライドと時代"も"文化と創造"に通ずるものがあるような気もします。

話は戻って、マイノリティとマジョリティに一辺倒な最適解はないわけで。

選んだ方が正解とかいう月並みな言い方にはなってしまいますが、共通して言えることは少しだけ見方を変えてみるって結構大事です。

「◯◯の◯◯による◯◯のための」のどれか1つを変えてみたり。

それぞれの環境や置かれた立場から決断経験を増やし、レジリエンス高く、胡散臭くなっていきましょう。

Co-Creation & Culture.




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