耳が要らない

夢の中で、家族4人で車に乗っていた。
運転していたのは父、助手席に母、後部座席に弟と私が座っていた。
弟がお気に入りの曲をリクエストして、私に
「この曲はすごいよ、耳が要らない」と言った。
流れてきた曲は声がくぐもっているような、水の中で歌っているように聞こえた。
しかし、クリアに聞こえないことへのストレスはなく、耳でないところから、例えば身体の真ん中の胃腸とかから、音を得ているような感覚があり、ああ、なるほど、こういうことか、と感じた。

普段本を読むこともなく、詩的な表現に興味もなさそうな弟の口から、的を射た素敵な表現が出てきたことに驚きつつ、感心していたら目が覚めた。やはり詩的表現をする弟は現実世界にはいなかった。

目が覚めた後、耳が要らない、などの場面は日常で時々あるなとふと思った。

中学生の頃、音楽の授業でホルストの組曲『惑星』を聞いた時のこと。その時は火星、木星、海王星を聞いたと思うが、火星を聞いた時、耳でないところで情報を得ている感覚になった。
肌が振動する感覚、特に頬が鳥肌と振動でピリピリする感覚があった。

音を聞いて、恐怖とわくわくが入り混じったスリリングな感情になったのはあの時が初めてだったが、その恐怖とわくわくの入り口は耳ではなく体全体であるような、耳を塞いでもその感情からは逃げられないような気がした。目の前で演奏されたわけではなく、ビデオで聞いていたのに、音の振動が耳だけでなく肌を中心に体全体から伝わってきて、耳が振動を音として脳に伝える力を超えているような感じがした。怖さが心地よくてその空間にいたいと思った。

ただ、これまでを振り返ってみても、目が要らない、は思い浮かばなかった。あるとすれば、その日見た風景が、寝る前に目を閉じても浮かんでくる、という場面だが、それは記憶を介していて、耳が要らないとは異なるものだと思った。

その理由は、現在の生活が視覚というものへの依存が大きいからなのか、それとも私が聴覚優位なタイプだからなのか、全然違う理由なのか、全くわからない。この先の人生で、ものすごく綺麗な景色を見たり、ものすごく面白い場所にいくと体験できるのかもしれない。でも、耳が要らないのエピソードから考えると、恐怖するけどワクワクする風景に出会った方が体験できそうな気がする。

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